昨日の夜は灯少なく、けれどバケモノ棲んでいた。

 今日の夜は灯多く、けれどバケモノどこへやら。

 てかてかぴかぴか眩しくて、クラヤミすっかり明かされて。

 昨夜のフシギは『ナニ』のせい?

 今夜のフシギは『ダレ』のせい?

 ……答えはきっと、月の下。夜が目覚めてハジマリ、ハジマリ。

 

 

あかおにさん、月にワラウ

 

 

 つがれたなぁ……

 情けねけど、本当につがれたんだから、仕方ね。

 《お里》がら出て来たはいいけども、やっぱり外は……おらぁ少し、苦手だ。

 ぶぃぶぃ、わいわい、てかてか、ぴかぴか。

 最初は珍しがったけど、すぐ飽きた。一体いつ、ニンゲンは寝るんだろな。こんなに夜がうるさかっだら、ろぐに眠れもしないだろに。

 あぁ、それにしてもつがれたなぁ……

 ずっと走りぎりだったもんなぁ、ニンゲンに見づからんよう、こそこそびくびく走っでだもんだから、それも仕方ねが。

 今日はもう休もう、この“びる”みたいなつめだい床じゃあねぐて、土のひんやりあったかい、そんな場所がいい。

 ……あそこだったら、良いがもなぁ。灯りもひっそり、家もぐっすり、そんな町のすみっこだ。きっど優しく眠れるだろなぁ。

 さぁ、もうひとっ跳びだ――

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 おつきさまが照らす夜、今日も沙織はひとりぼっち。おうちでひとり、おるすばん。すっかり慣れた。おるすばん。

 部屋はとても静かだ。さっきまで沙織が何となく見ていたテレビも消えてしまったから余計に。

 しん、とした音が嫌いな彼女だったけれど、どうやら今日は夜のお供がいたらしい……外の、小さな庭に。

 けろけろ、けろけろ。カエル達が楽しげに歌っていて……けれどなんだか少しだけ、それがなんとも寂しくて。

(……本でも読も)

 布団の上にぼすん、とうつぶせに倒れこみ、古ぼけたライトスタンドを付ける。灯りはあまり強くない、だけどそれで充分だ。沙織はそれが好きだったから。

 畳の匂いが気持ちいい。夏の夜は、いつも涼しい居間に布団をしいて、眠くなるまでこっそり本を読むのが彼女のささやかな楽しみだ。

 もう小四だと言うのに「二十一時には寝なさい」はいまどき無いんじゃないかと思っていた彼女は、いつも帰りが遅い父親にちょっとだけ反抗する気持ちで、今日も図書室から借りてきた本を読んでいる。

 ……とはいえ、それもだいたい二十二時くらいには止めるのだが。

 彼女にとって残念な事に、まだまだ小さな体は夜に正直で。

「ふぁ……」

 頭がふらふらする様な感じが沙織にやってくる。後は睡魔に任せれば、寂しさも感じずに明日行きの夢に乗れるだろう。

(もう、げんかい)

 今日はここまで、しおり挟んで本ぱたり。ごろんと転がり眼は庭に。

(今日の本は、アタリだったかも)

 まだ途中までしか読んでいないが、うつらうつらしながらも沙織は、今夜出会えた物語に感謝していた。

 小学校の図書室に置いてある本は、人気のものだと取り合いが激しい。そういう本はなるべくブームが過ぎるまで借りようとしないで、あまり目立たない本を借りるのが彼女のクセだった。

 本の取り合い程度とはいえ、だれかとケンカになるかも知れないのは沙織自身嫌だったし、そもそも本好きな彼女にとっては人気の有る無しよりも、白紙の図書カードに名前を記入する宝探しな本探しの方がわくわくした。

 今日出会えた児童小説も、そんな『オタカラ』だった。

 山にひとりぼっちで暮らしていた泣虫の赤鬼が、ある日小さな迷子の女の子と出会って、少しずつ仲良しになっていく……簡単に言ってしまえば、そんなお話。

 クラスの男子が喜ぶような派手なキャラクターや展開はないし、彼女の友達のミィちゃんが憧れるような、王子様とお姫様のロマンチックな物語でもない。

 でも、彼女は『あったかさ』を感じた。読めば読むほど、じんわりぽかぽか胸が不思議な気持ちでいっぱいになるような、気持ちよさ。

(《あかおにさん》かぁ……あんな鬼なら会って見たいかも)

 もちろん、冗談だ。沙織はもう『オコサマ』では無いのだ。妖怪なんてものはいない事を知っている。この前特番で見た幽霊も、たぶん本当はいないのだ。いたら怖いし、無理だしとは彼女談。

 ……その割にはサンタの事は信じているのが、何とも微笑ましい(毎年プレゼントを貰っている所為もあるのだろうが)

 とにもかくにも、そんな訳で冗談だった――その時は、まだ。

 

 なぜなら。

 

 ……お、ここはいいかもなぁ。

 ふわり。

 声と共に、ナニかが庭に降って来た。

 赤い肌にトラ柄パンツ。大きな体に立派な角。そして何故か顔には《あかおにさん》のお面を被った。ただのアヤシイ人とは違うナニか。

 え?

 同時に呆然。お面と眼が合う。

 お面の中の瞳は、思いのほか優しい色をしていた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「うめぇなあ、うめぇなあ」

「……おいしい?」

「あぁ、ごんなにうめぇお握りは初めてだぁ。うめぇうめぇ」

「そう」

 自分は何をしているのだろうか……沙織は笑顔を向けながら、誰かに問いかけていた。誰かはいないのだけれども。

(ひょっとしたら、これは夢なのかな……うん、そうかも。いやいやムリ)

 無理やり自分を説得しようとしても、そうは問屋が卸さない。

 なにせ縁側に腰掛け、けろけろ鳴き声を聞きながら美味しそうにシーチキンマヨネーズ味のおにぎり(沙織の朝食だった)にぱくつく《あかおにさん》は、夢と決め付けるにはあんまりにも有り得無さ過ぎたからだ。自分の頭はきっと、そこまで器用じゃないと、沙織はそう結論付けた。

 もちろん、最初は驚いた。悲鳴だってもれちゃう直前だった。

 ……けれど、沙織は結局《あかおにさん》を受け入れた。お腹を空かせているという彼におにぎりだってあげてしまった。

 間の抜けた現れ方をしたからかも知れないし、彼がしている《あかおにさん》のお面がどこか可愛げのある顔をしていたからかも知れない。

(ううん)

 首を振る。本当は彼女も分かっているのだ。

「となり、座っていい?」

「はごはご……」

 食べながらなので聞き取れなかったが、たぶんどうぞと言ったのだろう。遠慮なく座る。そもそも自分の家なのだし。

 沙織は眼を閉じる。けろけろ鳴き声に、楽しそうなはごはご音。ひとりからひとり増えるだけで、こんなにも賑やかで。

(あしたの朝ごはん、どうしようかな)

 そう思い悩む沙織の顔には、笑みが浮かんでいた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 数日後。

 わいわいぎゃあぎゃあなにこれあれこれ……

 騒がしい。とにかく騒がしい。小学生の昼休みはいつだって騒がしい。

 その騒がしい小学生の一員である沙織はと言うと、対照的に大人しい。と言うよりかは元気が無い。

 給食の中では大好物のジャーマンポテトも残してしまった程である。我先に小さなおかずへと群がる男子を六つに連結された机の席から眺めながら、沙織はため息をひとつ吐いた。

(みつからない……)

 そう、それが沙織を悩ませていた。

 

「都市伝説。知らねぇが?」

 

 あの夜。おなかもふくれて一息ついた《あかおにさん》は、そんな事を沙織に尋ねた。

 昔からいるバケモノ達とは違い、人に近すぎる幼い怪談。それが都市伝説だと《あかおにさん》言う(それもまた、彼の父親から聞いたものらしいが)。

「おらぁ、そいづを懲らしめに来たんだ」

 何でも、昔は山奥だったり廃屋だったりに隠れ潜んでいた《あかおにさん》のような存在は、もう百年以上前に、こことは遠くて近い処に引っ越してしまったので、彼の住む『鬼のお里』も時折人が迷って来たり、あるいは《あかおにさん》側が覗きに行く時くらいしか、ニンゲンとは出会う機会すら無いらしい。

 それでも時々、里長が代表をひとり決めて生まれたての怪異……つまりは都市伝説を退治してくるよう、命が下り(里長曰く、示しを付けなければならないからだとか何とか)。そんな訳で《あかおにさん》がやって来たと言う訳なのだった。

 その時、幸か不幸か、その都市伝説に心当たりのあった沙織は、思い悩む《あかおにさん》にお手伝いを申し出た。

 体は沙織のお父さんが四人位は入りそうなくらいあっても、何だのんびりした口調と言い、言動がかなり頼りなかったのもあるし、沙織自身、ファンタジーは大好物だったと言うのもある。

 けれどもなにより、しばらくは夜がさみしく無いかも知れない。と、思ったが故の事であった。

 ……その時は、そう思ったのだが。

 

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『怪人50メートル男』

 最近町で一番ホットな都市伝説だ。

 夜の町で、人気の無い真っ直ぐな道沿いを一人で歩くと、何処からとも無く、車椅子に乗りナイフを持った男が、車椅子に有るまじき速さで追いかけてくると言う物。

 追い付かれた後は、ナニカがあると言う事(でも、そのナニカが何かはまだ分かっていない)

 対処方法としては、『夜は出歩かない』、『二人以上で行動する』、『50メートル以上の直線を歩かない』こと。

 後は、人が死んだり大きな事故が今のところ起こっていないため、今はとりあえず、登下校は同じ地区同士の皆で一緒に帰るようにしていると言う事……

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 沙織のため息の理由はそう、それくらいしか分かっていない事が原因だった。

 1キロメートルとかならいざ知らず、50メートルの直線などは、町の至るところに存在する。父親のいない夜を見計って《あかおにさん》と『都市伝説』探しに町をさ迷い歩く(しかも、全く見つからない)のは、予想以上に堪えた。

「ふぅ」

 ため息がまたひとつ。

 と。

「どしたの『さっちゃん』なんだか元気ないけど、だいじょーぶ?」

 沙織をおいてわいわいと話していた内の一人が、声をかけてきた。

「うぅん、ぼちぼち」

「ぼちぼちかぁ」

「うん、ぼちぼちなの。『ミィちゃん』は?」

「うーん。ぼちぼちねぇ」

「じゃあ、いっしょだね」

「じゃあいいや」

 お互いに笑う。周りの友達が、沙織たちを茶化すように言った。

「毎日お仲がよろしいですなー」

 沙織にとって、ミィちゃんはちょっぴり羨ましい存在であり、なにより大切な友達であった。

 別に家が近いとか昔から仲が良かったとか、そういうのでもなく。極々自然に仲良くなり、気付けば気の置けない仲になっていた。

「そりゃなんてったって、わたしとさっちゃんだし!」

 何がなんてったってかは、沙織にも、そして多分ミィちゃんも分からない。何はともあれ、今日も彼女は元気いっぱいだった。

「そういえば、なんの話をしてたの?」

 気分も幾分晴れたので、沙織は話題の輪に入ることにした。

「なにってそりゃもう……」

 そうして良かったと、五分後の彼女は思った。

「ウワサの『都市伝説』の追加情報よ!」

 世の中、あっさり糸口が見つかるものだなぁと、沙織は思った。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「タガラモノ?」

「うん、宝物」

 そう、問い掛け返した《あかおにさん》に、沙織は頷いた。

 

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 捕まった時は、自分の大切な『たからもの』を取られてしまうんだって……物でも、そうでないものも、何でもひとつ、取られてナクシチャウらしいよ?

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 放課後の夕方。昼休みにミィちゃん達から聞いた都市伝説の新情報を元に、沙織は早速自宅にて《あかおにさん》と『作戦会議』を行っていた……片やあんぱん(たっぷりこしあん入り!)、片やシーチキンマヨネーズのおにぎりを手に持ちながら。

 ここ数日は、お互いに何かを食べながら話すようになっていた。沙織は食べるものが毎度違うのに《あかおにさん》はよっぽど味が気に入ったようで、彼のレパートリーは一向に変わらなかった。

「はごはご」

 幸せそうに思いっきり偏食への道をひた走る彼を見て。

(妖怪って太らないのかな……うらやましい)

 と思ったのは、彼女だけの秘密だ。小学四年生でも沙織はレディなのだ。

「タガラモノ、タガラモノなぁ……」

 そんな沙織の脳内寄り道をよそに、《あかおにさん》はうんうんと頭を捻っている。どことなくお面の鬼も目じりをさげているように感じた。

 しばらくして。ふと顔を上げた《あかおにさん》は沙織を見つめて尋ねた。

「サオリはタガラモノ、持ってるか?」

「……うん。あるよ」

 すっと、沙織は自分が来ている服の中に手を潜り込ませ、頭を垂れる。

 姿勢を戻した時、彼女の手のひらには、一円玉が取り付けられたペンダントが乗っていた。

 

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 もっとずっと小さいころ。

 まだお母さんがいた時のこと。

 みんなで競争をしたんだ。

 今みたいに、夜遅くまで働いてなかったお父さんを、お母さんとふたりで迎えに行った帰りにね。

 とってもまっすぐで長い道で、木で出来たトンネルみたいな道を、さんにんで。

 走って、走って、おかしくないのにみんなで笑いながら走って。

 わたしは一等賞!

 お父さんが二等で、お母さんが三等賞。

 はやいはやいって、ふたりが褒めてくれて。

 お家に帰った後、お母さんがコレを作ってくれたの。

 だから、わたしのタカラモノ。

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「……サオリは、オトウサンが大好きなんだな」

「――うん」

 だから、夜にひとりぼっちでお留守番をしていても、お休みの日に何処にも出かけられなくても、沙織は悲しくないのだ。寂しくないのだ。

(ちょっぴりさみしいけどね)

 なにせ小学四年生なのだ。少しくらいは勘弁して欲しかった。

「《あかおにさん》は?」

「おら……か?」

「そう、おら。わたしの大切なタカラモノを知ったのに、自分だけ話さないのはズルイと思うなぁ」

 あっさり答えたのは自分なのに悪戯っぽく笑う。いつもの沙織では絶対にしないし出来ないような事だけど、不思議と《あかおにさん》の前だと出来てしまう。でも、嫌じゃなかった。

「そだな、別に隠すもんでもねぇし」

 うんうん。と頷いた《あかおにさん》は、自分を指差して言った。

「おらのタガラモノは……コレ」

 その指を、ぽっかりと眼の開いた鬼のお面が見ていた。

 

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 おらぁ、気がよえぇんだ。

 だからいっづも他の鬼にいじめられてた。

 図体ばかりでかい泣き虫鬼って。

 別に間違ってねぇ。

 みんな、自分の方が力持ちだとか、だれそれに勝っだとかそんなんばかりでよぉ。

 おらぁどうしてもそれに馴染めながった。

 山の動物達と日向ぼっこしてる方がよっぽど良がった。

 だから、しがたね。

 ……ある日、他の鬼に追われて逃げた兎を追っかけてお里をを少しだけ出た時、河原でニンゲンの子供にあった。

 ぴーひょろどんどん、ぴーひょろどんどん。

 お祭りがあったんだろなぁ。はしゃぎ過ぎちまっだのか、うっがり転んで膝をまっかに擦っでよぅ。

 何とがしだかったけども、おらぁ鬼だ。出て行っだらもっとエラい事になるだろうし……

 そんどき、川からお面が流れて来だんだ。

 おらみでぇえに怖ぐねぇ、鬼のお面が。

 それ被って助げに行っだ。ぢぃさい身体背負って、祭囃子の近ぐえな。

 ありがとうって、言われだよ。

 おっかなびっぐり、ふるふる震えながら。それでも、言っでくれたんだ。

 はじめで、ありがとうって言っでくれたんだ。

 だから、おらのタガラモノ。

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「そっか……」

 お面の顔もどこか悲しげにしている《あかおにさん》を見て呟く。

 何で彼は鬼なんかに生まれてしまったのだろう。沙織は思わずにはいられなかった。この森のくまさんのような彼はあまりにもバケモノが似合わない。

 その境遇に自身を重ねてしまった沙織まで、悲しくなってしまった。

 ――でも、だからこそ笑う。

「じゃあ私も、そのお面にありがとうって言わないといけないね」

「?」

「……だって、そのおかげで《あかおにさん》とこうしてお話出来るんだから」

「……へへ」

 しんみりした顔も何処へやら照れくさそうに頭をかく《あかおにさん》のお面は、何だかうれしそうだった。

「さぁ、食べたら早速出発だ!」

「はごご!」

 ミィちゃんみたいに元気よく言ってみる。思っていたよりもずっと、力が湧いてきた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 少しだけ、嫌な予感がしていた。そういう時に限って、昔から沙織の感は当たりやすかった。

「何をしてるんだ」

 町の騒がしい所。あまり来ては行けないと、いつも沙織が父から言われていた一角に彼女はいた。だからこその厳しい問いかけ。

 《あかおにさん》はビルの屋上から辺りを見回している。危ない眼に合いそうな時は助けてくれるらしいが、出来れば今の状況を何とかして欲しいと沙織は願った。

「どうして……」

 沙織は問い掛ける。今はまだ二十一時半。会社にいる筈の時間。だからこそ、夜の町を探索できていたのに。

 その質問に彼は、苦い顔を浮かべながら告げた。

「今朝、同僚の小谷君……沙織も知っている彼だ。彼から聞いた。『最近。飲み屋街で沙織ちゃんらしい子を見かけた』と」

「……ッ」

「まさかとは思ったが、念のために早めに帰って来てみれば――これだ」

「ま、まって……これにはちゃんと理由が」

「どんな訳だ?」

 ……言えなかった。言える訳が無かった。言っても意味がないのだから。《あかおにさん》に会ったことが無いお父さんにそれを言っても信じられる訳が無いと、沙織は始めて彼と会った時の自分自身を思い出して黙った。黙ってしまった。

「……とにかく帰ろう。お説教はそれからだ」

「やっ、やめて!」

 強く手首を握り締められ、家への道のりを歩かされる事に抗おうとした衝撃で、沙織が身に着けていたペンダントの一円玉が服の内から抜け落ちてしまった。

「あぁ!」

 突然の大声に驚いた沙織の父親は、彼女が凝視している方向を見て言った。

「なんだ。ただの一円玉じゃないか……そんなのは良いから、駄々をこねずに付いて来なさい」

 

 なんだ? ただの? え?

 

 その時どうやって父親を振り切れたのか、沙織には分からない。

 そもそも、父親が見たのは取れ落ちた一円玉だけだった。ぱっと見ただけでは、それがあの時の一円玉かどうかだなんて分かる筈がない。冷静に考えれば分かる筈だ。

 それでも、分かってくれて当然と思っていたのだ。そう信じたかったのだ。

 父親から離れ、タカラモノの一円玉を握りしめ、睨む。

「……さんの」

「さお、り?」

「お父さんのばか! だいきらいッ!」

 抑えきれないなにかと一緒に、沙織は走り出して行った。

「一円玉……あぁ! くそ、馬鹿か俺はッ!」

 呆然としていた父親が何かに気付き、そう叫んでいた事も知らずに。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 夜をさまよう。

 沙織の涙が自身の小さな世界をにじませて。

 走って、走って、逃げ出して。大切なタカラモノを忘れてしまったお父さんが信じられなくて、認めたくなくて、彼女はただ、がむしゃらに……

(忘れちゃったの?)

 信じてたのに、だからひとりぼっちでずっとずっとお留守番だって出来たのに! 胸の奥からあふれ出るワガママ……だけど、だからこそ彼女にとって強く、止まれない想い。

 ――どこまで来たのか、気付けば明かりは何処へやら、静かで寂れた町外れ。

「あ……」

 思い出を想いながら走ったせいか、着いた先は遠くて近い過去、家族みんなで競争をしたあの木のトンネルで出来た一本道の前に。

 空を見上げれば赤いおつきさま、ぼんやりとにじんでいて。

 ごめんなさい。

 手のひらに握りしめた一円玉とペンダントを見つめながら、沙織は呟いた。だれに、なにに、だろう。わからない。ただ。

 今、彼女は『ここに居てはいけなかった』

 

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 夜は出歩かない。

 二人以上で行動する。

 50メートル以上の直線を歩かない。

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 いま

 ひとり

 どこ?

 

「――ッィ」

 ぞくり、と沙織の背中がふるえた。漏れそうな声をかみ締めて抑える。だけど彼女の心は言葉で溢れてしまって

 何でこんなにもこわいのだろう。いつもは聞こえる夏の鳴き声が、今に限って音の無い音でいっぱいだから?

 何でこんなにおそろしいのだろう。いつもは夜を照らす街灯が、しずかにしずかに消えていっているから?

 あぁ、いつもがこんなにも心強かったなんて知らなかった……! 気付いたなら急いで、急いで帰らないと。お父さんに怒られるだろうけど、かまわない、怒ってほしい。気にかけてほしい。そうすればきっとまた、家族は昔のように仲良く、ずっと一緒に幸せに。さあ、そのための一歩を、さあ、踏み出して、さあ! 踏み出してよ動いてよぉ! どうしてこんなにぴくりともあぁこれは誰かのイタズラでドッキリで、種も仕掛けもどこかにきっと――

 きぃ

 音が、聞こえた。

 きぃ

 遠くかろうじて見える先に、なにかが見える。

 きぃ きぃ きぃ

 なにかが。

 き

 あぁ、あれは。

 ききききいききききききききいきききいぎぎぎぎぎぎぎ

 車椅子だ。それに乗るコート姿のナニカの顔には……確か、この前見た映画に出てた……そう、ガスマスクが。

 そう思った時にはもう、ソレは沙織の目の前へ。

「タカラモノ」

 ナイフを振り上げて。

「チョーダイ?」

 タカラモノを持った手ごと切り取ろうと。

 

「やらね」

 

 後ろに跳んでいるような感覚。

 沙織を包むのはとても大きくまっかな腕で――

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 震えが、止まった。

「《あかおにさん》?」

「あぁ、《あかおにさん》だ……下がっていろ。あぶねぇ」

 降ろされた沙織が離れた直後、車椅子に座っていた男が立ち上がり、信じられない速さで《あかおにさん》に襲い掛かった。

(み、見えない)

 どこにでもいる女の子の沙織には、細かい攻防などはさっぱり分からない。ただ、《あかおにさん》が『押されている』事だけは分かった。

 ナイフらしき鈍い光が輝く度に、彼の赤い身体に赤黒い線が浮かんだ。

(《あかおにさん》……)

 ぎゅっ、とペンダントを握りしめる沙織を余所に、彼らは攻防を止め、しばらく睨み合った。

「……」

「おまえ、ニンゲンだな。都市伝説の、ニンゲンだな」

(え……にん、げん?)

 どうみても、今までの速度は人間外だったからこその驚き。

 顔に付けている悪趣味なガスマスクと相まって。その姿は人の型をしていても薄気味が悪い。

 だが。

「――なんでわかったの?」

 それは、予想に反して普通の声を発した。

「バケモノだからな」

「ふーん……鬼か、カッコいいじゃん」

 そういう口調や声は若かった。ひょっとしたら大学生くらいかも知れない。

「なんで都市伝説なんかになっだ。ろぐな事がねぇぞ?」

「なんで? 決まってるじゃんこれ見てくれよ!」

 そういうと、男はコートの裾をめくり、足を曝け出した。そこには深い抉られたような傷が、両足に刻まれていた。

「……オレ、足速かったんだ。走り一筋で走るのだって大好き

だ! 陸上の選抜選手にだって選ばれたんだぜ……そんな俺が、

ある日突然どっかの馬鹿の下手糞運転でこのざまだ。走る事以

外何も要らなかった俺がだぜふざけるなッ!」

 男は怒鳴り散らす。ガスマスクに隠れていても、その眼はきっと、狂って燃えている。

「無くしちまった俺のタカラモノ。なのに他の奴はいっぱいいっぱい……後生大事に持ってる奴がいる。持ててる奴がいる。まだ! だから取った!」

 コートを全て捲り上げる。そこにはお金やメダルや手紙やナニカがたくさんたくさんあって。

「タカラモノ! 取れば取るほど力が溢れる。足も速くなる。走れる! どんどんどんどんだから俺はぁッ!」

 《あかおにさん》へと跳びかかる。その姿はもう沙織には見えなかった。

「もっともっともっともっトォォォォォオオ!」

 そのナイフは《あかおにさん》のタガラモノのお面を、顔ごと奪い去った。

 筈だった。男にとっては。だが。

「なッ!」

 そこには顔を逸らし、突き伸ばした男の手首を左手で握りしめる《あかおにさん》の姿があった。

 お面が衝撃で外れる。その顔は沙織からは見えない。

 鬼が、叫んだ。

「泣き言いってるんじゃ……ねぇぞ!」

 残った右腕をガスマスクごと地面へとたたきつける。

「が、ぐ……ッ」

 聞いた事もない音が辺りに響き渡ったものの、男は息をしていた。

「おらぁ鬼よ。バケモノよ。でぇ嫌えなよ! オラだって……生まれるならニンゲンとがに生まれだかった。力なんかいらながった。こんな怖い姿なんて嫌だ!」

 きっと泣いている。彼は泣いていると沙織は思った。

「でもよぉ、それでも『ありがとう』っで言われたんだよ! だから、おらは、鬼で良い! 悪いかぁッ!」

 それは誰に対しての問いかけか。沙織か、男か、自分自身にか。それでも、都市伝説となった男は答えた。

「……わかんねぇよ」

 男は、消えた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 音が、灯りが二人に帰って来た。

「……どこに、行っちゃったのかな」

「わがらね。こごからもっと深いトコへ行ったか、もしかすっど消えぢまったか……」

「かなしいね」

「あぁ、かなしいさ……そうでなくちゃいげね。分がって貰えねから妖怪は、鬼は、ココにいられる」

「わたしは《あかおにさん》の事、少しだけ知ってるよ?」

「──」

「……ねえ、どうしてこっち向かないの」

 《あかおにさん》は沙織に背中を向けていた。

 足下には鬼のお面が、がらんどうの眼で笑っていた。

 今日の夕方、かなしそうに《あかおにさん》が語った事を彼女は思い浮かべる。

(おばかだなぁ)

 だから、笑って言うのだ。沙織は。

「だいじょうぶだよ」

「……おらのカオ、こぇえぞ?」

「うん、だいじょうぶ」

「さっぎのウン百倍でもか?」

「……それはちょっと、泣いちゃうかも」

「だったら!」

「それでも、だいじょうぶだよ」

 だって――

「トモダチだもん。私たち」

「とも、だち……?」

 びくりと、少し震える《あかおにさん》に近づく。

「うん、トモダチ。時々ケンカして、キライになって、でもいつか仲直りして、そんな事がずっと続いて……それが、トモダチ。だから――」

 ぎゅっと手を握る。沙織の小さな手では、《あかおにさん》の小指を握りしめるのがせいいっぱい。けれど、それで充分だ。

 だってもう、《あかおにさん》は震えてなんて、いないから。

「最初は怖かっても、泣きそうになっても、いつかきっと『へっちゃらになれる』私がいる。それだけは、ぜったいのぜったい」

 握ってないもう片方の手で、お面を拾う。

「それにね」

 くるり。小指を離し、沙織は《あかおにさん》の前に。

 見上げて見る《あかおにさん》の顔は――怖かった。それはもう、怖かった。彼女がこの前、ミィちゃん達と見に行ったホラー映画なんか眼じゃないくらいに。

 けれど、沙織は泣かなかった。笑った。だって。

「そんな眼をしてたら、ちっとも怖くなんて、ないんだから」

 こわいこわい鬼の顔。なのにその眼は二人が初めて会った時と変わらない。おっかなびっくりで優しい眼をしていた。

 その眼が涙でゆがむ。鬼の目にも涙とは言うけれど、こんなにも涙もろい《あかおにさん》には似合わないなと、沙織は思いながら告げる。

「それとも、私とトモダチになるのは、いや?」

 ぶぉんぶぉんと、周りの草木まで揺れそうな勢いで《あかおにさん》は首を振った。そんな事ないと、そんな訳があるかと、必死に。

「じゃあ、私たちは、トモダチだね」

「……へへ、そだな。おらたぢ、トモダチだな……」

 沙織は右手を差し出す。《あかおにさん》は右手を差し出す。

 仲直りの握手が行われようとして――

「さおりぃぃぃぃいッ!」

 え?

 二人の戸惑う声も何のその、突如聞こえた声と共に、スーツ姿の男が沙織を抱きかかえて、跳んでいった。横に。

 突然現れた男は沙織のお父さんだった。《あかおにさん》から距離を取った所で彼は叫ぶ。

「奪わないでくれ!」

「え、奪う? え……」

「巷で噂の都市伝説はお前だろ? 何か見るだに鬼っぽいし」

「いや、ええっど……」

「だったら沙織は勘弁してくれ、頼む! ……もう、嫌なんだ。大切な人を、家族を失うのは……嫌われたって、嫌なんだ」

 強く、強く。ぎゅぅっと、手放すものかと、失くさぬものかと、彼は娘を抱きしめながら懇願する。その姿は、いつか見た。娘にとって自慢のお父さんの姿で。

(おとう、さん……?)

 分かってしまう。気付いてしまう。沙織にとってのタカラモノがあの帽子だったように、お父さんのタカラモノは『私』なのだと。

(なぁんだ……なぁんだ)

 彼女に、笑みと涙がこぼれた。

 心配かけてごめんなさい。心配してくれてありがとう……そう強く思いながら心の涙を拭い、笑みを浮かべる。

(――でも、私のタカラモノにひどい事言ったのは、まだ許してないんだから!)

 さっと目配せ、沙織のそれに《あかおにさん》も合点がいったようで、眼で悪戯っぽく笑いながら、精一杯恐ろしげに沙織の父親へと告げた。

「おいニンゲン。そうまで言うなら許しでやらなぐもない」

「ほ、本当……か?」

「あぁ、ホントだ。我らはお前だちのように嘘は吐かん。だが約束しろ、今がら言う事を何が何でも守り抜く、と」

「約束……」

 どう考えても碌でもなさそうな言葉に身構える沙織父に《あかおにさん》は邪悪に言い放った。

「週に一度は、サオリと一緒に晩飯を食え」

「……は?」

「聞ごえなかったか、週に一度だ。何だったら二日でも三日でも良い。サオリと晩飯食え、晩飯」

「は、はぁ……」

「覚えておけ、お前がした約束を、我らはずぅっと見ているからな……!」

 呆然とする彼を見ながら、満足そうに頷く沙織を残し《あかおにさん》は空へと飛び立つ。

 まだまだ一つの都市伝説が消えただけ、世界は不敬な闇で満ちている。だから、《あかおにさん》は行かなければならない。

 夜の闇が、日常の影が正しく畏れられるまで。きっとそれが、バケモノが居る意味なのだから。

「あかおにさーん!」

 それでも、《あかおにさん》にもう、恐れは無い。

 だって――

 

 またね!

 

「へ、ヘヘッ……ヘハハハハァッ!」

 鬼が笑う。鬼が笑う。

 てかてかぴかぴか眩しくて、クラヤミすっかり明かされて。

 昨夜のフシギは『ナニ』のせい?

 今夜のフシギは『ダレ』のせい?

 ……答えはきっと、月の下。夜が笑ってオシマイ、オシマイ。





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