立ち往生



 一

 高く上がったフライが落ちていくのをぼんやり眺めている。

 腰掛けた土手は朝の雨の名残でまだ湿っており、ジーンズにじっとりと染みを作っているだろうが、そんなことは気にならない。

 側らに置いたコンビニの袋からビールを一本取り出し、プルタブを開けた。小気味のいい音。良く冷えたビールは口内の切り傷に染みた。

 名前も知らない草野球チームの試合。ゲームの流れなどどうでもよかった。というよりもそもそも、試合を見ているわけではない。この場所で呆けるための、いわば口実。

 生温い夏の風。応援席から飛ぶ野次。金属バットの快音。歓声。

 ポケットからくしゃくしゃになった一枚のハガキを取り出す。実家から転送されてきた、母校の同窓会の案内だった。手元に着た時には行くつもりなど微塵も無く、捨てたつもりになっていたのだが、荷造りの最中に見つけ、それが今や僕の唯一の蜘蛛の糸なのだ。

 日時はすでに二日後に迫っており、返信では間に合わぬので、つい今しがた記載されていた幹事の電話番号に直接かけてみた所、飛び入りでも歓迎だとの事だったのでほっと一安心、胸を撫で下ろしたところなのである。

 着信音。

 ポケットの中で携帯電話が鳴っていた。

 ついこの間まで電源を切ったまま、押入れの隅に放り込んだままにしていた物だ。半年前、解約して放ったらかしにしていたのだが、「もう外に出られるなら連絡がつかないと不便だ」と沙耶が契約してきてくれた。

 メールの差出人はやはり沙耶で、「早く帰ってきて」とだけあった。

 荷造りの途中、足りなくなったゴミ袋を買いに出かけた帰りだったのだ。

 文面だけ見れば恋人の帰りを待ちわびる女の催促に見えるが、このメールの意味は当然そんな良いものではなく、つまりさっさと帰ってきて支度を済ませて出て行け、という意味なのである。

 返信はせずにのろくさと立ち上がる。どうせ家はすぐそこだ。十分もかからない。

 十九の時この街に来て五年。沙耶と暮らし始めたのは二年前。

 僕がいよいよ廃人同然にぶち壊れたのが、半年前。

 本当に突然だった。夕方、いつものように路上ライブに出かけ、何曲か歌った。誰も立ち止まらず、誰も振り返らず。駅前の喧騒の一つとして僕の声はいつも通りに素通りされて、だからそんなことが理由だとは今でも思ってない。もうずっとそうなのだ。日常のひとコマ。僕はそのまままた何曲か歌い、適当な所で切り上げてアパートに帰る。冷蔵庫を開けてビールの一本も取り出し、一気に飲み干してその勢いのまま眠りに落ちる。その日もそうやって終わるはずだったのだ。

 歌の最中、ぱつん、とはじける様に、目の前から色が消えた。音も消えた。何が起こったのかを考える暇は無かった。恐怖。漠とした恐怖がしかし猛烈に僕を襲った。 

 唐突に世界に音が戻る。

 目の前を通り過ぎていく女子高生の笑い声が、今の自分への嘲笑に聞こえた。電話しながら歩くサラリーマンの目は、何よりも汚い物を見る侮蔑に満ちているように見えた。ベビーカーを押す母親の姿。学校のチャイム。混線した電話の様に色々な音が脳に直接飛び込んで来る様だった。場所も何も関係なく、現実に聞こえている音なのかも曖昧だ。

 話し声。きっと僕の事を悪く言っているのだ。ビルの合間から見える夕日が怖い。電線にとまるカラスの鳴き声は、早く死ね、早く、早くと急かす呪詛で。目に映る全てが僕を嘲笑い、罵り、憎悪している。電柱の影に誰かが隠れていて、ずっとこっちを見ている。殺される。どこかでくすくす笑い。悲鳴。

 急速に膨れ上がった恐々とした空想は、僕の心を瞬く間に蝕み、気が付けばその場で失禁していた。そのままそこに蹲り、がたがた震えながら耳を塞いで目を閉じた。

 そのままそうしていると、今度は全部が虚しくなってきて、そのまま動けなくなった。

 何もしたく無い。誰の声も聞きたくない。聞こえないはずの雑踏がうるさい。何もかもが面倒だ。息もしていたく無い。このままここで、野垂れ死んでしまいたい。漏らした小便に濡れた股間が気持ち悪い。嫌な臭いまでしてきやがる。

 行き過ぎる人の幾人かは、尋常ではない僕の様子に声をかけてくれた様だが、しっかりと塞いだ耳には何も届かず、結局警察に引きずられる様にして連れて行かれるまで、僕はずっとそうしていた。

 どういう風に連絡がついたのかは解らないが、明け方になって沙耶が僕を迎えに来た。

 その間ずっと警察所の椅子の上で目を閉じ膝を抱えていた僕は、彼女の目の前に現れた事に気が付かなかった。

 ただ強烈に頬を張られた痛みに、ぐずぐず目を開けると、沙耶に抱きしめられていた。

 仕事明けのままここに来てくれたのだろう。いつものきつい香水と、酒と煙草の臭いがした。

 朝焼けの街を沙耶に手を引かれて歩き、アパートに帰ってからも、彼女は何も聞かなかった。黙ってインスタントのラーメンを二人分作り、一つを僕の前に置いた。

 手を着ける気力は当然無く。僕は、ただ目の前に置かれた器を見つめていた。

 彼女は一人でそれを食べ終えると、寝支度をさっさと済ませて一人でベッドに入った。

「お昼過ぎたら起きるから、病院行こうね」

 短くそれだけ言うと、明るくなった外の光を、カーテンで遮断した。

 僕はそのまま、薄暗い部屋で眠っていたのか、それとも起きていたのか、ただぼんやりと時間の経過を感じていたと思う。

 既に頭の中には何も無く、巨大な空っぽだけがでん、とその中心に居座っているのを感じた。

 

 沙耶とはバンドを結成して三度目のライブで知り合った。出順が終わり、他のバンドを見る気にもなれず、バーカウンターでビールを飲んでいると派手な女が馴れ馴れしく声をかけてきた。それが沙耶だった。

 短く切った髪は明るい金色で、ライブハウスの騒音の中、怒鳴るように話さなければ何を言っているのか解らない場所で、それでも彼女の声はよく通った。声に凛とした張りがあるのだろう。自分の様にもごもごと話す人間にとっては酷く羨ましい声質だった。

 彼女の手にある火の付いた煙草の煙に混じって、甘ったるい香水の匂いがぷん、と鼻をくすぐった。濃い化粧で作られた様な顔はお世辞にも美人とは言えなかったが、仕草の端々に愛嬌のある少女らしさが垣間見え、それがなんとも可愛らしい女だった。何より、小柄に似合わず男好きのする、いい身体をしていたのだ。

 他人の好意に慣れていない僕は、彼女の言葉一つ一つにいちいち動揺し、曖昧に相槌を返し、気が付くと彼女の部屋で朝を迎えていた。自分の隣に全裸で眠る彼女を見て、寝ぼけた頭で考えた事は「うまく転がり込めるかもしれない」だった。

 その頃の僕はといえば、恋だ愛だに没頭出来るのは、確たる物が自分の中に無いから他人に求め、つまりきちんとした自己を形成出来ていないからそんな愚かな事にのめりこむ事が出来るのだと考えていた。

 一夜明けて彼女と軽薄な言葉を交わす自分に反吐が出そうになりながらも、ただそれだけの事で彼女に好意を持ち始めている自分がますます嫌いになった。

 その日から僕は沙耶のアパートに居候していたのだ。ワンルームに二人暮らしは少々窮屈で、けれど互いの呼吸を感ぜられる程度の、初めての他人との距離に、僕は不思議と安心を感じていた。

 曖昧なままの僕達の生活の中で、沙耶に愛されていたかどうかは解らない。ただ彼女は僕の音楽が好きだと言った。僕は愛されてはいなかったかもしれないが、確かに、許容されてはいたのだ。

 彼女は家からそう遠くないガールズバーで働いていた。日が暮れると仕事に出かけ、夜遅く、明け方近くに帰ってきた。僕は彼女の部屋からバイトに行き、ライブに行き、彼女の部屋で眠った。時々二人で昼間からビールを飲んで、泥酔の中で一日中性交した。沙耶が部屋で育てていた胡散臭いハーブを吸い、気分が悪くなり一晩中二人してトイレで吐きまくった。彼女はよく笑ったし、僕もそれに釣られる様に、笑う数が増えた。

 生活費は概ね彼女に頼っていた僕は、好きな様に金を使い、暮らした。

 ヒモだとか屑だとか言われる事も、どうでも良かった。恥じらい等は生まれてこの方の長い付き合いだったし、誰かに何か言われていちいち落ち込む程、僕は自分が好きではなかった。

 沙耶はそれについて特に咎める事もしなかったし、「申し訳ないと思うなら、私のためにもっと音楽をやって」などと言ってまた笑う。

 それに応えようとしたわけでもないが、だから僕もこれまで以上に音楽に打ち込んだ。ライブも沢山やった。嫌いだった路上でもやる事が多くなった。動員も少しずつではあるが増えていった。半年経ち、一年経ち、また半年。

 そんな矢先の事だったのだ。

 

 宣言どおり昼過ぎに起きた沙耶に半ば引きずられる形で、僕は病院に連れて行かれ診察を受けた。勿論部屋から出るまいとじたばた抵抗したが、何発か引っ叩かれ、目元までニット帽を深々と被らされ、ずるずると引っ張り出されたのだ。

 部屋に戻ると処方された色とりどりの薬を眺め、いくつかを飲み込んだ。

 劇的に何が変わるわけでもなかったが、ようやく訪れた眠気に身を任せ、そのまま泥のように眠り続けた。

 そこからの僕の生活は、二週間に一度沙耶に連れられて病院に行き薬を貰う。それ以外は部屋に篭り、誰にも会わず、沙耶以外には誰とも話さず。当然アルバイト先のビデオ屋にも一切行かなくなり、けたたましく鳴り続ける携帯電話が煩わしくなり電源を切って押入れに放り込んだ。

 起き上がる事も出来ない無気力に、一日中天井を眺めて過ごした事もあった。朝からしこたま酒を飲み泥酔し、便所に駆け込んで反吐をぶちまけ、空っぽになった胃にまたアルコールを流し込む。一瞬正気に戻れば激しい自己嫌悪に任せ、インターネットの掲示板に死にたい死にたいと書き込んでは、阿呆の様に涙を流し、かと思えば次の瞬間には十代のあどけない少女の痴態に情欲を燃やし、ただひたすら自慰に耽っている。

 そんな僕の生活に、沙耶は呆れた顔はするものの、やめろとは言わず。「今は、まぁ仕方ないよね」と言って苦笑するばかり。それに気をよくした僕は、ますます怠惰の極みに落ちていった。

 時々彼女はアルバイト雑誌を持ってきて、こっそり部屋に置いておくのだが、僕がそれに目を向けることは一度たりとも無かった。

「ね、見て。倉庫整理だったら、簡単な作業だけで人と話すことも少ないらしいよ」

 などと冗談めかして見せてくるのには閉口したが、その度に「いや、そういった仕事は大体が派遣元から一人責任者が出て、朝夕に召集して何やかやと相談するに決まってるんだ。今の僕じゃあ、混乱させてしまうだけだよ」なぞ曖昧にごまかして逃げ続けてきた。

 捨てられる事無く次第に高く積まれていく様々なアルバイト雑誌を見て、僕はもっと早く気付くべきだったのかもしれない。

 音楽などは当然どうでも良く、バンドのメンバーとも一切連絡を取り合っていなかった。沙耶の財布から金を抜き取り、その日の酒と煙草を買う。有り余った時間を黙々とテレビゲームのレベル上げに費やす。

 しかしそうしたデカダンの日々もついに先日終わりを告げたのだ。

 事の起こりから半年が経ち、おっかなびっくりではあるがそこそこに一人で外にも出られる様になっていた僕が、いつも通り早朝からコンビニへ大量の酒を買いに行き、急な土砂降りの雨に閉口しながら部屋に戻ると仕事から戻ったばかりであろう沙耶が、ずぶ濡れのまま部屋の真ん中にぼうと立っていた。

「…何やってんの?」

 明らかに怒気を孕んだ彼女の声に僕は何も言えず玄関に立ち尽くしてしまった。

「コウ、もう外出られるじゃん。いい加減ライブしなよ。新しい曲作ってよ。聴きたい」

「いや…、外といってもまだあまり、それにライブなんて…無理だよ。まだ怖い」

「しろよ! 愚痴愚痴と言い訳ばっかりしやがって、いい加減にしやがれごく潰し! もう沢山! あんた今日まで一度でも自分からまともになろうと頑張った? ずっと見てたよ。仕方ないなって、かなりの部分で、許してきたよ? でも間違いだった。口先ばかりで死にたい死にたい言いやがって、そら死ねよ! 部屋好きに使っていいから、見ててあげるから死ねよ! 歌わないならお前に価値なんて何にもないんだよ屑!」

 悲鳴の様な声で怒鳴り散らし、部屋の隅に立てかけてあった僕のフォークギターを引っ掴み、沙耶は僕の横っ面を思い切り殴りつけた。

 中が空洞とはいえそんなもので殴られては、不摂生と引き篭もりでひょろひょろの僕の体はひとたまりも無かった。もんどりうってすっ飛び、壁に頭を強かに打ちつけた。

「馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがってきちがい野郎!」

 激情のままに目茶苦茶に僕を殴りつける沙耶を、必死で頭を守りながら呆然と見つめる事しか出来なかった。部屋には、僕を一度打つたびに激しく鳴る、ギターの弦のたてるビンビョンという奇妙な音が絶え間なく響いた。

 山積みのアルバイト雑誌が音を立てて崩れるのが見えた。

 瞬間。ああ、あれは沙耶の我慢の徴だったのだ。いつまでも捨て無かったのは、僕にそれを教えるためだったに違いない。

 きちがい! きちがい! と喚きながら僕を殴る沙耶に、深く同情した。

 僕は何をしているんだろう。好きでもない商売女に散々に罵倒され、どころか今にも殺されんばかりに殴られ、無抵抗にただ身を任せている。傍から見れば本当にきちがい染みた光景だろう。

 沙耶の手が急に止まり、自分が薄笑いを浮かべている事に気付いた。

 沙耶はギターを放り出し、「出て行って」と吐き捨てるように呟いて、風呂場に消えた。

 力なく窓の外を見ると、雨はあがった様だった。

 

 細々とした私物もあらかたゴミ袋に放り込み終わり、いよいよこの部屋に僕の物は数える程になった。

 さして変わらない部屋の様子に、自分の存在など、この生活においてもさしたるものではなかったのだろうという気持ちが沸き起こりかけるが、いや。何を今更。

 そもそも、僕などは誰にとっても何か益や華を与える存在にはなれはしない。そんなことは十二分に理解していた。枷や障りにしかなれない厄介者。だからこその、今である。

「ぼうっとしてないで。ゴミ、もう無いの?」

 鏡台の前で忙しく化粧をしながら、沙耶が吐き捨てるように言った。仕事に出かけるにはまだ相当早い。どこか出かけるのだろうか、と考えかけてやめた。彼女が何処へ行こうと、もう僕には関係の無いことなのだ。

「後でアレを忘れたなんて言ったって、知らないからね。何か残し物を見つけたら、すぐに全部捨てて、燃やしてやるから」

 二年一緒に暮らした女に、返す言葉も無く俯くしかない自分にも、もう嫌気すらささなくなって久しい。彼女の言うことは全てもっともであるし、これまでの彼女の我慢を思えば、ますます申し訳ない気持ちばかりだ。

「…うん。ごめん」

 いつも通りに、短くそう言うのが精一杯だった。

 思えばこの二年、沙耶には掃いて捨てるほどの謝罪はしたが、殆ど一度も、感謝の言葉を述べた事の無い事に思い至る。

 沙耶の短い舌打ち。

 僕は今日、この家を追い出される。

 いや、追い出されるなどと被害者面した言い方は間違いだろう。僕は僕自身の行いによって当然の帰結としてここを出て行かざるを得ない状況に陥ったのだから。これは報いであり、彼女こそが真に被害者と言える。

 ふと、自分の物とは別の大きなゴミ袋が目に入った。燃えないゴミに分類されたその袋の中には、沙耶自身のものであろう化粧品の空き瓶や何かと一緒に、僕のやっていたバンドの、唯一のCDが入っていた。

 僕は黙って、開きっぱなしになっているその袋の口を結んで閉じた。

「鍵、ここに置いておくから」 

 少しの着替えしか詰まっていないボストンバッグがやけに重たい。 

 ギターケースを背負うと、沙耶が目の前に立っていた。何か言うべきかと逡巡するが、最早自分に出来る最善は、一刻も早くここを出て行くことで、僕などが彼女にかけるべき言葉は何も無く、彼女の方から僕にかける言葉も既に無いと言うことに思い至り、早々に出て行こうと歩き出そうとした所、「これ」という沙耶の声に足が止まる。

 彼女はむっつりした顔で、黙って一万円札を何枚か僕に押し付けるように渡した。

「これまで貸したお金も、勝手に使ったお金も、返そうなんて思わなくていいから。端ッから期待なんてしてないし。その代わり、もう二度と、本当に一生私の前に顔を見せないって約束して。お金、ろくに持ってないでしょ? だったらこれ、欲しいよね? 約束してよ。そうしたら、あげる。次、顔見たら多分私、あんたを殺すから」

 ここで彼女を張り倒し、「いい加減にしやがれこのスベタ。お前の股ぐらで稼いだ汚ェ金を、なんで僕がへこへこ受け取らなきゃならねぇんだ」とでも言えたなら、僕もまだ捨てたものではなかったのだろう。

「…約束するよ」

 僕は出来るだけ小さな声でそう言って、金を受け取り財布にしまった。この声が彼女の耳に届かなければ。曖昧に聞こえていれば、また、などと我ながら惨めッたらしく浅ましい打算を込めて。「ありがとう」。

 部屋を出て駅に向かう。

 どぶ川沿いのワンルームを振り返る事も無く、といってそこに格好のいいものなど何も無く、真実あるのはただボロボロの負け犬がすごすごと逃げていく様である。

 ポケットの中の、ハガキを、縋るような気持ちで握り締めた。

 

 

 長旅に痛む尻をさすって、駅前の商店街をぶらぶらと歩く。何年経とうと、目に入る限り、町はちっとも変わっていない様子だった。

 四方みな山、山、山の盆地である。歩いている人よりも田畑の方が多い、何も無い田舎町だ。大昔には城があり、城下町だったということで、一応は観光地でもあるようだが、何軒かあった土産物屋はすべて閑古鳥で、およそ成功しているとは言えない様子。

 時刻は既に午後四時を少し過ぎ。夏の日は長いとはいえ、暗くなった町で宿を探し歩き回るのは御免だ。早々と宿を決めるべく、動く事にする。

 駅から少し歩いた八幡神社の側に、観光案内所があった。中に入ると五十がらみの女性が、付けっぱなしになったテレビから僕に目を移した。

「あら、こんにちは。どこかお探し?」

 愛想良く話しかけてくれるが、どこか訝しむ様な風が見え隠れしているように感じた。 着古したTシャツにジーンズ、肩にギター引っさげた僕の格好は、観光客というには少し汚すぎたし、地元の人間ならこんな所に用事など無いだろう。「どこかお探し?」と尋ねた彼女の顔に、不審の色が混じっていても無理からぬ話である。

「しばらくここいらに留まろうと思いまして…、ええと、宿の紹介は、やってますか」

 もごもごそう言いながら帽子を目深にかぶりなおした。思ったより上手く話せるもんだな、と少し驚いた。相手と歳が離れているおかげかもしれない。自分と縁遠い土地であるということも手伝っての事だろう。

「ええ、ええ、やってますよ。あなた運がいいわ。今日はもう誰も来ないだろうと思って早めにシャッターしちゃおうかと思っていた所」

 悪戯っぽく笑って、カウンターの前に腰掛けた。僕も向かいに用意されていた椅子に座る。

「お兄さん、学生さん? 今は夏休みか何かで?」

 いいえ、違います。一緒に住んでいた女に追い出され、途方に暮れていると、近く同窓会があるとの事なのであわよくばそこで金を借り倒してやろうという腹積もりで、はるばるここまで来ました。とは言えないので、曖昧に「ええ、まあ、そんなもんです」と答える。「出来れば、あまりお金のかからない所がいいのですが…」。

 おずおずと希望を口にして、彼女の顔を窺う。呆れられただろうか。「録に金も無いのに宿を紹介してくれなどと図々しい。裏の八幡さんの軒下でも借りなッ」と、悪し様に怒鳴られるのではないか。

 しかし彼女は笑顔のままで、「ええ、ええ、解ってます、学生さんなら。民宿で、いいかしらね」と、目の前のパソコンを操作した。

 紹介された宿は案内所から歩いて二十分程の、大きな公園の側にあった。森林公園と名前のつけられたそこはかなり広大な面積であるらしく、僕が住んでいた頃にこんなものがあったかしら、と首を傾げていると、5年程前に出来たらしい事が入り口の掲示に書いてあるのを見つけた。

 若葉荘というその宿は全部で五部屋程の小さな民宿で、素泊まりなら一日三千円。前払い制であるとの事なので、一先ず三日分と言う事で金を払った。

 部屋に通されると、「御用事あれば仰って下さいね」と愛想無く言って女将は早々と部屋を出て行き、僕は一人になった。

 飯を食いに外に出る気にもなれず、見るつもりの無いテレビをつけようかと思ったら壊れているらしく、ちっともつかない。四畳半の部屋の畳は醤油で煮しめた様な色をしており、申し訳なさそうに掛けられたカーテンもヤニで激しく黄ばんでいる。沙耶と会う前に住んでいた部屋を思い出し、唐突に、ふりだしに戻った様な錯覚。

 喧しい音を立てるエアコンから出てくる風も、嫌な臭いがするので、気晴らしに窓を開けると風が心地いい。外には広い芝生のグラウンドが見えるばかりで、人は一人も居ない。 今更感傷も何もあったものではないが、取り合えずひと心地ついた。煙草に火をつけ暫くぼんやり外を眺めていたが、言い知れぬ気だるさに襲われ、半ばほど残してさっさと揉み消し、布団を敷いて寝転がった。

 じりじりと蝉の鳴き声ばかりがうるさく、他に音のない部屋で天井を見つめているうちにいつのまにか眠りに落ちた。

 

 昼過ぎて、女将のドアを叩く音でようやく目を覚ました。

「アァよかった。来て早々、コレやったのかと思いましたよ。お客さん、そういうんじゃないでしょうね?」

 そう言って首を括るジェスチャー。

 せかせかと布団をあげながら僕を見る女将の目はいかにも胡散臭そうな物を見るような風で、僕は少しむっとして「死ぬだけなら、なにもこんな所まで来なくてもいいでしょう」と煙草に火をつける。

「そうですけれどね、心配なもんですよ。こっちには、観光で?」

 こんなボロ宿今更自殺の一人二人出たところでさしたる問題でもなかろうが、と内心で毒づきながら「同窓会の報せが来たんです」。女将が開けた窓から吹き込んでくる風が気持ちよかった。

「アラ! お客さん、地元?」

「一寸の間、住んでたんです。高校の間だけ」

 そう言うと急に女将の顔が緩み、声から警戒するような色が失せた。こんな時期にふらふらやって来る得体の知れない余所者から、一応の目的と俄ではあるが住民であった事を知って安心したのだろう。現金なものである。仮にも客商売ならどんな相手にも愛想は振りまくのが筋ではないか、とも思ったが、自分の身なりや年齢を考えると、どうやっても胡散臭さは否めないので仕様の無い事だと変に納得した。

「高校ッていうと、崇香? 七鹿?」

「崇香です」

「お兄さん、出来る人なのねェ。大学生?」

 否定して今の自分の事を語ったら、前以上に不審に思われる事は間違いなかったので、ここでもやはりそういう事にしておいた。

 女将は何やら言いたげだったが、そろそろ出かける身支度をするので、と言う事で出て行ってもらった。

 同窓会は六時からと言うことだったが、時計を見るとまだ一時を少し過ぎたところで、こんな町で五時間もどう時間を潰したものかすっかり参ってしまった。

 仕方なくふらふらと公園を散歩していると、親子連れをいくらか見かけて気が滅入ってきた。もうあの時のような妄想に苛まれる事は少なくなったが、それでも油断すれば誰かの嘲笑が聞こえてくる様な気がしていた。水飲み場で残っていた薬をいくらか飲んで、芝生に寝転がった。

 ちっとも柔らかくなく、草はやたらと硬く、おまけに青臭い精液の様な嫌な臭いまでしたが、お構い無しに手足を伸ばした。

 空は快晴で、日曜の午後は極めて穏やか。陽射しが少しきつかったが、ゆったりと全身に浴びる陽光は気持ちが良かった。

 ふと少し離れた場所に洒落た、大きな建物がある事に気が付く。

 立ち上がり、見に行って見ると図書館である。どうも僕の住んでいた頃にあった図書館が、この場所に建物も新たに移転した様である。丁度時間を潰すにはいいと思い、中に入るとクーラーの冷気が心地よく迎えてくれた。

 文学の書架の前で適当な本を見繕っていると、「コウちゃん?」と声をかけられた。

 振り返るとこの図書館の司書らしい格好をした若い女。後ろで一纏めにした長い黒髪が揺れる。一見清楚風な彼女の側らにはこれから補充するのであろう大量の本を積んだワゴンがあった。

「やっぱり。相原耕太くんでしょお? 崇香で一緒だったのに、覚えてないのぉ?」

 嬉しそうに声をあげ、ハッとしたように口元を押さえる。舌ッ足らずな感じの喋り方、どこか聞き覚えがあったが、しかし名前は出てこなかった。

「ええと…」

 突然の事に辟易していると、彼女のつけている名札に目がいった。『川島』と書かれたそれに、ようやくポンコツの記憶力が仕事を始めた。

 彼女は同級生の一人で、確か吹奏楽部の部員だった。僕の所属していた写真部の部室とはすぐ近くだったこともあり、それなりに話をした仲だった。

「あ、川島さんか。二年三年、の途中まで一緒だった?」

「ほのかでいいよぉ、気持ち悪いなぁ。そうだよ。こっち居るって事は、同窓会来るんでしょ?」

「うん。一応、そのつもり」

「私も五時で仕事上がりだからぁ、良かったら一緒に行こうよ」

 願っても無い申し出だった。僕は今日の会場について、イマイチ場所をきちんと把握できていなかったのである。

「じゃあ、この辺で適当に時間つぶしてるから。終わったら声かけてくれよ」

「了解。ここ、二階に喫茶店あるからそこにいなよぉ。年中空いてるから、何時間いたって文句言われないよ」

 そう言ってくすくす笑いながら、「それじゃ」と一言、ワゴンを押して書架の合間に消えてしまった。 

 僕はといえば、久々の、クラスメイトとの再会に、思いのほかすらすらと言葉が出てきた事に驚いていた。先飲んだ薬のお陰か、宿を出がけに引っかけたビールのお陰か。後ろ向きな性根は生来の物としても、僕は僕が思っている以上に、もしかすると回復しているのかもしれない。と気をよくしていた。

 ほのかの言った通り、喫茶店はガラガラで、僕以外に客は一人、コーヒーを前に老紳士がぼんやりと新聞を読んでいるだけだった。

 僕もそれに習い、先ほどの書架から持ち込んだ何冊かの本をテーブルに置いて、コーヒーを注文すると、ぼんやりと文字を追いかけ始めた。

 

 一冊読み終え、二冊目が半ばに差し掛かった頃、ほのかはやって来た。

「お待たせぇ」

 向かいに腰掛け、コーヒーを注文する。

「もう五時だけど、ゆっくりしていく余裕あるの?」

「何言ってるの? 会場、商店街だよ。ここからなら、歩いたって二十分あれば十分間に合うよぉ」

「ああ、そうなんだ」

 だとすれば、昨日のうちに前を通ったのかもしれない。

「久しぶりだねぇ。コウちゃん、三年の秋に引っ越しちゃったからそれ以来?」

「そうなるね」

「今何やってるのぉ?」

 そら来た。

 どうせ時間になれば色んなやつらから同じ事を聞かれるのだ。いい加減な事を言ってしまえ。大学生でいいじゃねぇか。そもそもの目的を思い出せ。二度と会うまい事を

 喉元まででかかった言葉を、飲み込み、代わりに僕は洗いざらい、ここに至る経緯を話していた。ノスタルジィに中てられた訳ではあるまいが、やはり少なからず、自分を覚えていてくれた人間のいたことが、嬉しかったのだ。

 塵芥の積み重ねの様な話を聞かされても、ほのかは「大変だったんだねぇ」と心底心配そうな顔で相槌を打ち、静かに聞いてくれた。

 ほのかは大学を出て、この図書館で働き出して二年になるという事を酷く長々と語った。そういえばこの女はいつもそうだった。当時から頭が足りていない様な独特のゆったりとした喋り方には虫唾が走ったし、一言二言で説明できる簡単な事も、無駄に長ッたらしく大袈裟に話すのだ。

 それでもそういった鬱陶しい点を我慢して、ほのかと話す事の多かった理由には、彼女の容姿が少なからず自分の好みであり、向こうの方でもどうやらまんざらでも無いような風で、あわよくば一発、といった下衆な思惑があったのだった。

 結局当時彼女には付き合っている男がおり、ついぞ想い(といって言い高尚なものでは全く無いが)を伝える事も無く、僕も引っ越す事となり、そのまま時間に任せて忘れていったのである。

 今ここでこの女に会えたのは僥倖ではないか。このままうまいこと取り入って、家にでも転がり込めればしめたものである。そのまま暫くそこで今後について考えながらダラダラと暮らすのは実に悪くない事のように思えた。

「今は、この近くに住んでるの?」

「うん。なんとねぇ、学校のすぐ側なんだよー。グラウンドの脇にねぇ、防火用の給水池があったでしょ。あのすぐ裏」

 母校の場所もかなり胡乱な有様だったが、ああ、そうなんだといい加減に相槌を打った。

「そういえば、今日お祭りの最終日なんだよ」

「祭り? ああ、自治会だか町内会だかの。毎年やってたんだっけ」

「うん。七夕祭り。花火も上げるんだよぉ」

「同窓会の日程、まずったんじゃないの? みんなそっち行かなくていいのかな」

「あはは、この町にずっと住んでる人だったらもう飽きちゃってるって」

 祭り。住んでいた頃一度だけ行った事を思い出した。商店街やら町内会の連中で屋台を出したりちょっとした舞台で出し物があったり、締めには確か地元の消防団の花火があったのだ。 

 いずれ子供だましのちんけな祭りだったよな、と、おぼろげな記憶の中の打ち上げ花火を嘲笑った。

「あ、そろそろ、時間やばいかも。行こうよー」

「そんなら、会計は僕が持つよ」

 途端にほのかはけらけらと笑い出し、ぎょっとしている僕に向かって心底おかしそうに言った。

「ごめん、ごめん。高校の頃は、ジュース一本おごるおごらないでワイワイ言ってた人が、会計は僕が持つ、なんて言うんだから。そうだよねぇ。私たちもう、大人だもんねえ」

 いかにも感慨深い、といった声音に、しかし僕は頷く事も出来ずに黙って席を立ってレジへ向かう。

 そうだ、僕はもう子供ではない。しかしこんなに惨めな大人があるのか。この金だって沙耶に恵んでもらった物だ。歳相応に振舞おうと虚勢を張って嘘ばかり吐いて生きてきた出来損ないの大人だ。図体ばかりで中身は空っぽの。その癖自尊心だけは馬鹿みたいに強い。

 ごめんなさい。

 心の中で誰にとも無く、謝った。

 何に対しての謝罪なのか。

 きっと、僕の無様な自嘲の中で傷付けた、あらゆる物人への、逃げ口上に違いない。

 

 クラスメイトの一人がやっているという居酒屋を貸切にして、同窓会は始まった。座敷が一つにテーブルが二つ、あとはカウンターだけの狭い店だ。薄明かりの店内には、軽快なジャズが流れていた。

 アルバイトらしい若い女に座敷に通されると、僕とほのかに気が付いた数人が「おお、」と声を上げ、俄に場の視線が僕たちに集中した。久しぶりの多くの目に冷や汗が出たが、明るく人の輪に駆け込んでいったほのかに大多数の目が移ったおかげで、僕は数人のクラスメイトに「久しぶりだなあ」と声をかけられただけで済んだ。曖昧に笑顔を取り繕って生返事し、隅の方に人の少ない空き席を見つけてそこに腰を落ち着けた。

 ほのかと最初に会った事で七割がた目的を達したつもりになり、最早この会に興味の失せていた僕は、顔も名前もろくろく覚えていないクラスメイト達から時折かけられる声にへらへら応え、適当な相槌を打って、後は概ね一人で酒を飲んでいた。

 内心では、どいつもこいつも馬鹿みてぇにはしゃぎやがって、狭い田舎でそうそう顔合わせない日があるでも無しに、何が久しぶりだ。つまらねぇ思い出話には虫唾が走る。などと悪態をつきながら、その癖時折話しかけられると下手糞な笑顔なぞ浮かべて応じるのだった。

 そもそも僕は高校時代に大した思い出などなかった。

 特別親しい友人のあった訳でもなく、ただ流されるままに二年と少しの時間をこの街で過ごしたのだ。ただ延々と無為で退屈な時間だけがあって、僕はその退屈の中で生来の陰鬱を次第、育んでいったのだ。

 所属していた写真部は、僕が入部した時には辛うじて十名ほど在籍していたのだが、三年が夏を境に来なくなるや少なかった二年はみな辞めてしまい、僕と同級の、今や名前も思い出せない男だけが残った。その彼もいつのまにか来なくなり、結局僕はただ一人の写真部員として過ごす事になった。入部の際提出した、出鱈目に撮った一枚が顧問の気に入った様で、最期の部員であるし、せっかくやる気もある様なので、とかなんとか、本来即廃部の所を目こぼし頂き、僕は二年半の間ついぞただ一人の写真部員としてのらくらと部室で惰眠を貪る権利を得るに至ったのである。

 ほのかの方でも然程熱心な吹奏楽部員ではなかったらしく、ちょくちょく一人には広すぎる我が部室にやってきては、起きっ放しになっていた先人の私物であろう漫画などを読みながら駄弁ったりしたのだった。

 そういえばほのかはどこへ行ったかと辺りを見回すと、子供を連れて来ているらしい女のいる輪に入り楽しそうに笑っていた。

 その姿を見て、今更ながらにすっかり自分ひとり取り残された形にいよいよ気が滅入ってきた僕は、ビールを啜り、頻りに煙草をふかした。

 向かいに座っていた太った女が露骨に顔をしかめたが、お構い無しに矢継ぎ早に煙草に火をつけていると、立ち上がってどこか他所へ行ってしまった。

 なんだ畜生。言いたい事があるのなら、はっきり言えば良いじゃねえか。どうせ向こうへ行った途端、僕の陰口を肴にするつもりだろう。するがいいさ。自分より下の人間ってのは、そうやって使うのが正しい。そうすれば、今の自分がさぞや立派に見えることだろうよ。

 どうでも良いなどと考えていながら、結局まったく相手にされない状況は面白くない。実際どうして自分はこうも惨めで、鬱陶しく、陰気なのか。その性質にはまったく吐き気を覚えるし、裏腹でここの連中みな見下している癖にどちらにも徹しきれ無い優柔不断にまたぞろ死にたくなってきた。

 ポケットから残り少ない薬を引っ張り出し、大雑把に口の中に放り込んでビールで流し込んだ。暫く後訪れる多幸感に包まれるまで、僕はますます勢い良く酒を呷った。

 と、ほのかがこちらに向かってくるのが目に入った。

「ね、この後、二次会らしいよ。カラオケ」

 凡そ検討のついていた事にうんざりしながらも、「行かないよ」とだけ答えた。

「ええー、コウちゃん行かないんだぁ。じゃあ、もう帰っちゃう?」

「いや、まだ少し早いし、適当に懐かしい通学路でも散歩しながらぶらぶら酔いを醒ますよ」

 実際、まだ八時を少し過ぎたところで、宿に帰ったところですることなど何も無い。正直な所、懐かしいなどと思うほどに愛着も無いが。

 今日の所は気も沈んできた事であるし、ほのかには後日、また連絡すればいい。

 ほのかは大袈裟に腕組みして逡巡した後、「じゃあさ。お祭り、行かない?」と、聞かれては困る重大な秘密を告げる様に僕に耳打ちした。 

 

 祭りは町内に三つある小学校のうち、一番校庭の広い所を会場に行われていた。

 校舎から対面の植木に渡された電線に吊るされる裸電球の明かり。灯篭。スピーカーから流れる、誰も聞いていないであろう間の抜けた歌謡曲。浴衣の人、人、人。

 僕とほのかが着いた時には、屋台はあらかた店じまいの様子で、そこいらで酒盛りが開かれていた。

 それでもまだ相当の客が残っているのは、締めの花火を待っているのだろう。僕達は、片づけを始めていたりんご飴の屋台で一本ずつ飴を買うと、校庭の端にあった朽ちかけたベンチに腰掛けて、周りの人々と同じ様に花火を待った。

 ほのかは一瞬どこかへ駆けていったかと思うと、手に大量の缶ビールを持って帰ってきた。

「町内会の人がいたから、分けてもらっちゃったあ」

 にこにこと満足気にビールを開けて、飲んだ。僕の一本を貰い同じ様に蓋を開ける。

「浴衣、着たかったなあ」

「仕方ないよ。急だったし」

 とりとめもない話をして、ビールを飲んだ。ほのかのペースが随分速いように思ったが、酔って潰れたならまぁ、それでもいいと思い、僕も同じ様に次々ビールを開けていった。 そうしているうちに、轟音。空に鮮やかな花が咲いた。

 わっとどよめく観衆から少し離れた場所に居た僕らも、馬鹿みたいに口開けて、空を眺めた。

「消防団の花火も、馬鹿に出来ないでしょ」

 ほのかがちょっと自慢げにそう言うのが聞こえた。

「もっとちんけなものだと思ってたよ。本当だ、たいしたもんだ」

 そうして二人黙って次々打ち上げられる花火を見ていたのだが、ふいにほのかの手が僕の手を握った。オヤ、と思っているうちに艶かしく指を絡めてくるその手管にいよいよ、「なんだこいつ、やっぱり僕に気があるんじゃあないか?」と、酔いと薬のおかげで気の大きくなっていた僕は、すっかり、全部うまくいった様な気になり、絡める指にも力を込めた。

「…ね、最後まで、見る?」

 じっと僕の目を覗き込んでくるほのかの顔を、花火が一瞬ぱっと照らす。

 刹那の明かりに見た彼女の顔は、笑っている様にも見えたし、泣きそうである様にも見えた。

「うちおいでよ。ゆっくり、飲もう」

 僕は黙って頷くと、彼女の手を引いて校門を出た。ほのかの家までは少し距離があるとの事だったので、携帯電話でタクシーを呼んだ。

 相当に酔っ払っているのか、ほのかの足取りはふらふらと危なっかしく、何度も躓きその度僕がささえるのだが、その度接触する女の温もりに、劣情が首をもたげるのを感じずにはいられなかった。

 

 ほのかの住んでいるアパートのすぐ前でタクシーを降りた。

「二○二号だからぁ…」

 甘えるような声を出し、僕の腕にまとわり付く。長い髪から漂う、甘い芳香と、頬に触れる吐息に混じった酒の匂いにクラクラした。

 この女と一発やって、そのまま上手い事転がり込んでしばらくなんとか暮らしていけるかもしれない。それなりに金に目処が付いたらさっさとトンズラして東京に戻れば良い。この様子じゃよもや処女ってワケじゃあるまいし…、いや。しかしこの女にもし男がいたら事だぞ。後々面倒臭い事になる。殴られるのは勿論御免だし、怪我をしたってつまらない。

 そうだ、まずはそれを確認して、しかるのち食えそうなら据え膳食わせて貰おうじゃないか。

 ふらつく足取りで二人して寄り添って階段を登り、鍵を取り出させて部屋に入った。

 八畳程のワンルームで、部屋中が様々な色と物に満ちていた。殺風景で物の少なかった、沙耶の部屋とは対照的だ。

 中でも目を引いたのが部屋の至る所に置かれた大小無数のぬいぐるみ達だった。クマだの犬だのウサギだの、見ただけでそれと解る動物のぬいぐるみの他に、一体何物なのかも解らない得体の知れない生物のぬいぐるみまで、五十はあるのではないだろうか。

「可愛いでしょ。みんな、私の宝物なんだぁ。一人一人、名前もあるんだよぉ」

 はしゃいでいちいち紹介してくれるが、勿論そんな事はどうでもいい。歳相応とは言い難い少女趣味には辟易したが、それはこの際措いて置こう。聞いておかねばならない事があるのだ。

「僕なんかを部屋に入れていいの? ほのかなら、付き合ってる男、いるんでしょう?」

「えぇ、居ないよぉ。私そういう魅力に欠けているみたいで。ぜーんぜん、ご無沙汰。ね、このキャンドルいい匂いなんだよ? 火、付けるねぇ」

 なぞとのらりくらりとごまかしていたが、なおもしつこく僕が問い続けると、ようやく、実は「同僚の妻子ある男性と不倫関係にある」というような事をもそもそと話した。

 そら見ろ! 危ない所だった。いずれこの女も屑に違いないじゃあないか。馬鹿のふりをしてとんだしたたか者だ。空恐ろしい。阿呆の様に振舞っていた癖に、中身はどうしようもない雌豚ときた。

「じゃあ、僕みたいなのがここに居てはダメだから。帰るよ」

「待ってよぉ。…私だってこんなのじゃダメだって解ってる。止めようって、思ってる。今日コウちゃんに会って、ピンときたんだよ。きっと神様がチャンスをくれたんだって。こんなのから抜け出す、きっかけをくれたんだって。だからぁ…、コウちゃん。きっかけ、頂戴」

 そう言って僕にしなだれかかって来るのである。この女の腹の内を想像するとゾッとした。

 それにしたって、この期に及んでまだおぼこの振りで通すつもりとは、たいした女だ。それとも、本当に白痴じゃあるまいか。

「馬鹿言うなよ。いくら不倫の関係だとて、君はその男が好きなんだろう。だったらせめてその筋くらいは通せよ。何が神様だ馬鹿馬鹿しい。そうやって、ありもしないモノに頼ろうって魂胆がいけすかねえや。結局快楽に酔って抜け出せないのはおめぇ自身の問題じゃねえか」

「でもあの人最近、かまってくれないんだもん。してる最中は好きだ好きだ言うくせに、外じゃ余り話しかけるなとかあ、勝手だよ。どうせゴールなんて無い関係だし、私だって別に離婚して結婚してくれって本気で思ってるわけじゃないけどさぁ」

「まてよ。先はそんな関係をやめるきっかけがほしいと言ってたじゃないか? それじゃあ単に寂しいから他の男に慰めて貰いたいって訳なの?」

「…だったら悪いの?」

「冗談じゃないぜ、お前の舌は何枚あるんだよ。それだって本当か知れたもんじゃない。信用なんてありゃしねぇ」

「ここまでのこのこ付いてきた癖に、大きな事言ってんじゃないわよ。あんただってヤりたいから来たんだろ? それなのに、いざとなったら。何さ、腰抜け。ぐずぐず言い訳ばっかりしてるけど、あんた、実はインポなんじゃないの?」

 途端、ほのかの口調がこれまでと別人の様になった。間延びした舌ッ足らずな喋り方は何処かへ消えうせ、嘘のように饒舌に僕を罵った。

「そんな事だから、東京の商売女にも愛想つかされたんだよ、この不能。どうせお飾りなら熨斗でも付けて、後生大事にしまってな! そら、もうとっとと出て行ってよ!」

 あまりの豹変に咄嗟に返す言葉が遅れたが、ここまで言われては僕も黙ってはいられない。

 出て行け、と繰り返す声が、一瞬沙耶と重なった。しかし目の前に居る女は決して沙耶ではないのだ。ならば黙って聞いてやる事は無い。どうせ今日まで忘れていた様な女じゃねえか。

「うるせぇこの売女。芋臭ぇカッペの分際でとんだアバズレ具合だな。てめぇの糞臭ぇ股ぐらに喜んで顔突っ込む馬鹿野郎の気が知れねぇ。公園の便所の水飲んだ方がまだマシだ。いい加減にしやがれ。何がアロマキャンドルだ、何が宝物だこんなもの」

 手近にあった人の頭程の虎のぬいぐるみを引っ掴み、顔の部分を蝋燭の火で炙ってやると、ほのかが猛烈な悲鳴を上げた。

「いやああぁ! やめて! やめてよ馬鹿! まーくんは何も悪い事してない! やめなさいよ、このキチガイ!」

 猛然と僕に掴みかかろうとするほのかを思い切り蹴り飛ばした。派手にしりもちをついて、何が起こったのかもわからず呆けた顔で僕を見上げるそのマヌケ面が可笑しくって仕様が無かった。

「何がまーくんだ低脳め。いい歳した女のその様見てると、寒気がするぜ」

 手の中で『まーくん』の頭は今やメラメラと燃え上がっていた。僕は尻尾を持ったまま窓を開け、外の給水池目掛けて燃えるぬいぐるみを放り投げた。緩やかな軌道を描いて、じゅう、と給水池に着水し、沈んでいくぬいぐるみを見て声を上げて笑った。

「そら、見ろよ。お前の大事な綿屑が泳いでるぜ。一人じゃ寂しかろうよ。こいつも、こいつも!」

 手当たり次第引っ掴み、給水池に次々投げ込んだ。

 ほのかは殆ど恐慌状態で、訳のわからないことを叫びながら部屋を飛び出して行ったかと思うと、下の給水池まで駆けて行ったらしく、今やどざえもんの引き揚げ場の様相を呈しているそこから必死で愛するぬいぐるみたちを助けようとしていた。

 暗いところでじたばたともがくようなその様に、急速に先までの怒りは萎み、代わりにやってきたのはやはり言い知れない空しさだった。

 とんでもない事をやらかしてしまった。何もかもぶち壊しだ。どころか、下手をすれば警察の厄介になってもおかしくない。

 そのままここに立ち尽くすことになるのが恐ろしくなり、僕も部屋を飛び出して、貯水池の傍で沈んでいくぬいぐるみ達を眺め、呆然と立ち尽くすほのかの背中に声をかけた。

「悪かった。どうかしていたよ。酒と、薬のせいで、ついつい自制がもたなくなったんだ。お前の言ったとおり、僕はきちがいだよ。ごめん、許してくれないか?」

 惨めったらしく頭を下げる僕に一瞥をくれ、ほのかは小さく「死んでよ」と呟いた。

 僕は媚びるような笑顔を作り、必死でへこへこ謝った。

 せっかく掴みかけた蜘蛛の糸、ここでぶった切るにはあまりに惜しい。形振りかまわずとにかく機嫌をとらねえと。

 先までは『男が居るかもしれない』という不安でいまいち、その気になれなかったも、「いる」という答えが解ってしまったらいっそ気が楽になり、すると、冷静になった今、今度は俄然、ほのかの身体に対する情欲の火がチラチラと燃え始めたのである。

「本当に、頭おかしいんじゃないの? こんなことしておいて、今更ごめんなさいで許すと思ってるの?」

 侮蔑を通り越し、理解が出来ない物を見る目でほのかは絶叫した。

「本当に心底からすまないと思っているんだ。なあ、機嫌を直してくれよ。先までは、僕らあんなに睦まじかったじゃないか。彼氏とは、上手くいって無いんだろう? 僕に乗り換えればいいよ。一晩中、相談に乗ったっていい」

 頬を力いっぱい殴りつけられた。

 口の中が切れ、血の味が滲む。

「消えろって言ってんのよ! もう、わけわかんない。何なの? あんた、おかしいよ」

 泣きべそかいてそう言うと、その場に座り込んで嗚咽し始めた。

「なぁ、泣かないでくれよ。別に、シなくたっていいんだ。一緒にいさせてくれよ。行く所がないんだ、どん詰まりなんだ」

 土下座。どこまでも情け無い僕の懇願にも、ほのかはただただ嗚咽し鼻を啜るだけだった。

 これはもう駄目だ、と踏んだ僕だったが、なおも未練がましく「…わかったよ。帰る。でも、ほんの少しで良いんだ。そっちだって、さんざ気を持たせたんだから責任ってもんがあるだろ? 最後までとは言わないから、手でしてくれねぇか」などと口走ってしまった。

 キッと僕をにらみつけたかと思うと、ほのかは猛然と立ち上がり、今度は先とは逆の頬を強かに殴りつけた。

 痛みに思わずその場に蹲ると、間髪入れずに今度は顔面を足蹴にされて、僕は無様に仰向けに転がった。思わず呻き声が漏れる。

「野垂れ死ね!」

 と吐き捨てると、ほのかはアパートの自室目がけて一目散に駆けていった。

 最早目で追う気力もなく、力なく立ち上がると、痛む体を引きずって貯水池を後にした。

 

 あてない歩みは次第に早くなり、いつしか僕は走っていた。どうせ何処へも行けぬのだ、という強迫観念が、自然僕を突き動かした。

 街灯もまばらな夜の田舎道は、しかし思いのほか明るかった。月は雲に霞んでいたが、なるほど、星明りという奴か。

 夏の熱気と、日頃の運動不足にすぐにぜいぜいと息が切れたが、それでもひたすらに走った。後ろを振り返ると、あの後ほのかの呼んだであろう警官が追いかけてきている様な気がして、休む事は考えられなかった。警官だけではない。訳のわからない巨大な何かが、僕めがけて猛然と迫っている。

 足を止めれば最期、あの時感じたのと同じ、漠とした不安と空しさに囚われ一歩も動けなくなるだろう。そうなった時に頬をひっ叩いてくれる沙耶はもう居ない。

 いつの間にか舗装されたアスファルトの道を外れ、木々の生い茂る丘陵に入り込んでいた。

「今私、高校の近くに住んでるんだよぉ」

 ほのかの言葉を思い出し、ああ、ここは学校のすぐ側にあった『ユーフォー道』だと気が付く。

 なぜそう呼ばれていたかはとうとう在学中に知る事は無かったが、ちょっとした自然観察なんかによく使われていた場所だ。上りきった所はちょっとした展望台になっており、それなりに見晴らしが良かったので学生達のデートスポットとしても有名だった。

 大した高さではあるまいが、流石に夜となると勝手が違う。まず、暗闇である。

 木々が邪魔して星明りも届かない。

 何度も転び、道端に激しく嘔吐した。殆ど液体になった吐瀉物に頬を汚し、それでもなお夢中で走った。足は殆ど棒の様で、木の根に躓いた拍子に今度は失禁した。誰かの嘲笑が耳を掠めるが、気に留めてはいけない。

 止まるわけにはいかない。不安につかまってしまう。

 ほのかの事も、得体の知れない空しさも、今はもうどうでも良かった。

 なぜ走っているかなどもう知らない。しかし走るのだ。足を止めることだけは絶対にしない。

 妙に晴れ晴れとした気持ちだった。息も絶え絶えで、おまけに全身泥だらけ、漏らした小便でずぶ濡れの下半身はこのむし暑さでいよいよ不快だったし、吐き気は相変わらず絶え間なくやってきては僕の喉を振るわせる。それでも、どこかスッキリとした心地なのだ。

 俄に、ある一つの考えが僕の頭をよぎった。

 本当の暗闇の中では、前も後ろもありはせず。ならばただ進む事に意味があり、前だか後ろだかは明るくなった時に気がつけばいい。どちらに進んでいようといずれはきっと光に出くわすのだから、その時まではただがむしゃらになるしかないのだ。その最中での汚れや醜さを気にしていてはいけない。そんな暇はなく、ただただ動く。

 やおら開けてきた視界に、僕は光を見た。

 展望台、

 頭上に広がる星々が快哉を叫んでいるかの様な、

 天の川、

 つんのめって横転。そのまま僕は意識を喪失した。

 

 ガラガラの電車に乗り込むと、クーラーの冷気がどっと身体を包み、少しだけ身震いした。

 あの後、明け方になり一旦宿に戻ると、起き出してばたばたと朝食の用意をしていた女将は僕を見るなりギョッと目をむき、後は何も聞かずに風呂を沸かしてくれた。

 風呂からあがると、朝食までご馳走になった。尋常ではない僕の様子に同情してくれたのだろう。その優しさまで穿った見方でしか受け取れない自身の浅ましさに、ますます惨めになりながら、飯を食った。

 ほのかにはこの若葉荘の場所は言っていなかったが、これ以上この町には居れないので、その日のうちに暇することにしたのだ。

 女将は最後までもう一日くらいゆっくりしていけばいいのに、と心配そうに声をかけてくれたのだが、「東京に遣り残した仕事がある」と言うと、それなら、と土産に握り飯を作ってくれた。

 実際、遣り残した事なら山のようにあった。

 まずは沙耶にあやまろう。もしかすると本当に殺されるかもしれないが、それでも僕はやらなければいけない。殺されたなら、それはそれで別にかまわない。

 立ち止まっていてはいずれ一人グズグズと腐れて朽ちるだけの人生だ。ならば動いて然る後死ぬ方が、いくらかましと言うものである。

 ここまで来たことに、意味はあった。

 どこにいっても、どこまでいってもろくでもない僕ではあるが、どん底の底で見出した物は結局僕に振り出しに戻れと教えてくれた。

 だから僕は帰らなければならない。思い出も苦悩も綯い交ぜの、好きとも嫌いともつかないあの街へ。もう一度あの街で歌を歌うのだ。誰にも見向きもされないような、どうしようもない歌を。ゲロ吐いて二日酔いにのたうつ様な無様な暮らしを。誰もが目を背けるような、僕自身の事を。

 ほのかには悪い事をしたが、おかげで僕はもう一度動こうと思うことが出来た。相変わらずあてのないフラフラとした先行きではあるが、少なくとももう止まってはいない。

 車内販売が通ったので、ビールを二本買い、残りの薬と一緒に立て続けに飲んでしまった。

 電車がトンネルに入ったのだろう、風切る音がごうごうとうるさい。

 真っ暗闇の外を眺めながら、僕はゆっくり眠りに落ちていった。

 目が覚めた時には、あの忌々しい、街についている事だろう。

 外の眩しさに備え、今はもう暫く、ゆっくり休むことにしよう。





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