怪談の学校(後編)


「じゃあこれがお前の分な」
 亜樹と一緒に戻ってきた太一が、そう言って両手に持ったトロフィの一個を差し出してくる。後の二個は亜樹が持っており、同じように奈緒に手渡している。
 一瞬の躊躇いの後、公人はトロフィを受け取る。カップに注がれた水の表面が、受け渡しの際に小さな波紋を起こす。当たり前だが先ほど物置で持ったときより少し重い。
「それじゃ、準備ができたのなら早く始めましょ」
 亜樹が全ての窓のカーテンを閉めるなり言った。
 照明がついているので暗くは無いが、窓から遠方を見通せなくなったことで視界に狭苦しさを覚える。雰囲気があるという見方もできるが。
 トロフィ片手に鏡の周囲に集まる四人。皆の顔が鏡の中で円陣を組んでいる。
 鏡越しに全員の表情を眺めていると、公人はあることに気付いた。
 鏡が随分と綺麗だ。
 映写機や周囲に並ぶ長机は、古めかしいのもあるが長く放置されていたのであろう、うっすらと埃が乗っている。
 しかしこの鏡は、頭上の照明の光を受けても曇りはどこにも見当たらない。
 まるでつい最近誰かがこの鏡を磨いたように。
「誰から水を入れればいいんだ?」
 訝しげに鏡を見つめていると、鏡の中から太一が視線を向けてくる。
 公人は無言で首を横振った。
「じゃあ順番がないなら私からやるわ」
 亜樹が鏡に一歩寄ると、そのまま流れるようにトロフィを傾けた。
 カップ口から落ちる透明な水が鏡に落ち、無数の飛礫が照明を受けて輝く。
 直ぐに亜樹のトロフィは溜めていた水を吐き出し終えた。床に寝かされた鏡には装飾が囲いとなって水を留め、薄い膜が張っている。
 続けて太一が水を流し込むと、水膜に波が起き鏡に写った自分たちの姿が歪む。
『――――』
 ゆらゆらと揺れる自身の鏡像に見入っていた公人は、微かな声を聞き視線を跳ね上げた。
 教室の中には、視線を鏡に落としている友人たち以外の姿は無い。
『――――』
 再び、公人の耳が声を捉える。
 いや、耳ではない。公人は先ほど物音で聞こえた声を思い出す。
 あれと同じように、声は頭の中から響いてくる。
『――ネヨ』
 それに気付いたからだろうか、声は音としてではなく言葉を形作り始める。
 無意識に公人は息を止めていた。
 次があれば絶対に聞き逃さない、拳を握りこみじっとそれを待った。
 声を――
「もう止めようよ!」

 どれほどの間、公人は呆然と立ち尽くしていただろう。
突如として響き渡った奈緒の絶叫も、わずかに揺れる暗幕に吸い込まれたように、教室内は静けさを取り戻している。
「奈緒……どうしたんだよ突然」
硬直から抜け出し、公人は短く問いかけた。
しかし奈緒は顔を俯かせたまま、何も答えてはくれない。じっと観察すれば、彼女の肩が小刻みに揺れているのに気付く。
泣いているのか?
そういえばさっきこの教室で二人きりになった時から彼女の様子は変だった。あれから今まで一言も発さず、ずっと涙を堪えていたのだろうか。
心配になり、公人は彼女に肩に手を伸ばす――
「奈緒、次はあなたの番よ」
亜樹がその手から守るように、そっと奈緒を抱き寄せた。そしてトロフィを持つ彼女の手を掴み自分がそうしたように、中に入っている水を鏡へと注ぐ。
「どうして、どうしてこうなっちゃうの……」
まるで人形のように身動きせず、亜樹にされるがままの奈緒が虚ろな声で呟く。
どうしていいのか、何が起きているのかわからず、公人はただ二人をじっと見つめた。
やがて奈緒のトロフィも全ての水を吐き終えた。
『――ジャネーノ』
また声が聞こえ始める。今までのものより鮮明に。
公人は悪寒を覚え、背中を震わせた。
視線を感じる。それも一つや二つではない、もっと多く、この教室全体を満たすほどの人の気配を感じる。だが見回した所で、誰かいるわけではない。
それでも気配ははっきりと感じる。自分を取り囲み、触れるほど近くに誰かがいる。
『キモチワルイ……』
背中が粟立つ。その声は今までのものとは違い、しっかりと耳で捉えていた。息が吹きかかるほどの耳元で発せられたように。
『ハハッ、ナンダコイツバカジャネーノ』
『エーチョットヤメテヨ、コンナトコロデキモチワルイ』
『オラ、ナンカカエシテミロヨ!』
次々と聞こえてくる声。
全て聞くに堪えない罵倒、嘲り、嘲笑……それが止むことなく何度も、無数に周囲から発せられる。
公人は思わず耳を塞いだ、だがそれでも指の合間を透き通り声は耳に届く。押し潰されるように、膝をつき体を縮こまらせる。
「何だよこれ、どういうことだよ」
見れば残りの三人も耳を塞ぎ、同じような恰好で身を守っていた。声は全員に聞こえているようだ。
さっきまで毅然としていた亜樹が、子供のように目をつむり体を丸めている。その頭を奈緒が母親のように抱いていた。一番余裕がありそうなのは太一だった。それでも辛そうに顔をしかめているが、とりあえず傍に行こうと床を這う。
その時、揺れる視界が偶然にも捉えたものに公人は釘付けになった。
鏡に人影が映っていた、それも一人や二人ではなく揃いの制服姿の男女が十人ほど。だが覗き込む自分の顔も、取り囲む友人たちの姿もない。そもそも見えているのはこの視聴覚室ではない。ボールやスコアボードが乱雑に仕舞われた体育倉庫だ。
そこで見知らぬ男女が、何やら騒いでいる。
――いや、知っている顔が一つだけあった。前髪が目深にまで伸びており、少し印象が違うがそこに映っていたのは亜樹だった。
自分より一回り大きな男子生徒に囲まれながらも、物怖じせず睨み返すその様は公人のよく知る亜樹そのものだった。
だが――
『もうさっさとやってよ』
『こいつ一度痛い目にあわないとわかんないからさ』
それは鏡の中から聞こえてきた。映っている別の女子生徒たちから声。はっきりと人の意思を感じられる。
はっきりとした悪意を。それは声音だけでなく、表情にも表れている。亜樹を囲む男子たちのどの顔にも、下卑た笑みが浮かんでいる。彼女の白く細い腕を掴み上げ、痛みに悶える顔を見て愉しんでいる。
髪を引き、頬を叩き、足を掛ける。行動がエスカレートしていくにつれ、彼らの笑い声も増していく。歪んだ笑みがいっそう深くなり、醜悪さが際立っていく。
やがて一人の男子生徒の手が亜樹の胸元を掴んだ、抵抗しその手を払おうともがく亜樹。
小さなボタンが弾け飛び、亜樹の制服前部が六部ほど開かれた。腕以上に白く透き通るような白い肌、小ぶりながらもそれと分かる膨らみを包む簡素な下着が露になった。
――それが合図となったのだろう。男子たちが一斉に、亜樹に覆いかぶさる。
真に見るに耐えない光景が、公人の眼下で始まろうとしていた。
「何だよコレ、止めろよ!」
思わず公人は怒鳴り、鏡を蹴り付けた。
惨劇の鏡像が水膜と共に揺れ、その姿を変える。
次に見えたのは教室だった。内容はあまり変わらない、クラスメイトであろう大勢の生徒たちに囲まれて、一人の男子生徒が横たわっている。
紺色の制服には幾つも足跡がつき、顔にはあざや擦過傷が見える。
予想していたが、その男子生徒の顔にも見え覚えがあった。知っているものと何ら変わらない、笑みをつくれば愛嬌のある丸っこい顔。
焦点の定まらない目を天井に向け、端から血がこぼれる口を大きく開き荒い呼吸を繰り返しているのは太一であった。
『はぁはぁ言ってるぞこのブタ』
『興奮してんじゃねぇの』
『うっわ、こいつキモイからありそう』
教室中が笑いで爆ぜた。何をされたのか知らないが、一目見て危険な状態だと分かる彼を指差し笑っている。男子も女子も関係なく、止めるものも糺すものもいない。
絶句であった。自分たちに起こるこの異常な事態よりも、鏡が映し出す陰惨極まる光景に公人は驚愕と恐怖を覚えた。
「どうなってるんだ……」
痙攣する喉からやっと吐き出させた言葉はそれだけだった。
なぜこんなものを見なくてはいけないのか、なぜこんなものが見えているのか。
どうしてこんなことが行われているのか、それらの疑問が答えを形作る暇も無くぐるぐると公人の頭の中で回り続ける。
「どうも何も、これがオレたちの前世だからさ」
太一が絞り出したような声で言った。
「お前たちの前世?」
太一の返答を公人は聞き返した。分かり難い皮肉やジョークを言ったわけではないことは理解できる。見つめてくる彼の瞳はしっかりと据わっている。
「分からないのも無理はないけど、今ここに映っているのがオレの前世なんだよ」
太一が鏡を指差しながら言う。瞳を揺らぎもせず、じっと公人の顔を見ながら。
「意味がわからない。この光景が前世? だってここに映っているのはお前じゃないか」
先ほど観た、観てしまった亜樹も多少外観が違うが本人だ。年齢も容姿もほぼ変わらないが前世、人は何度生まれ変わっても同じような容姿になるということなのだろうか。
太一が目を瞑り、溜息交じりに首を横に振った。
「そう、ここに映っているのは私たち。まだ生きていた頃の私たちだよ」
答えをくれたのは――奈緒だった。
「……え?」
「浅生くんも亜樹ちゃんも、この学校にいるみんなが、私も含めてみんなそう」
奈緒が物憂げな顔で語る。意味の無い――意味を解することができないことを。
「私も含めてみんな――もう死んじゃってるの」
瞬間、公人は総毛だった。

周囲を迫っていた気配たちが、一斉にその圧力を弱めた。突如として肩が軽くなり、引き波に足をとられるような軽い眩暈を覚えた。
いつの間にか声の嵐も止んでいる。鏡に映ったあの不愉快な映像も消えていた。
さっきから何か聞く度に余計混乱に拍車が掛かっていたが、これは極めつけであった。
自分も含めて、ここにいる全員が既に死んでいる?
普段なら取り合うことも無く聞き流す妄言。だがこの異常事態に乗じられたら、悪い冗談と一蹴することも難しい。
助けを求め、太一に視線を送ると、彼は意味深に首肯しただけだった。
奈緒が続ける。
「主重くんは分かってない、みんなが隠してきたから仕方ないことだけど。ここはね学校で酷い仕打ちを受けて亡くなった人たちが集まって、仮初の学園生活を送る場所なの」
「…………」
公人はもう奈緒の言葉に何も返せない。奈緒は真実を語っているのだと理解できるから。
「誰がつくったのか、どうしてあるのかは知らない。天国や地獄とかそういうものでもないと思う。ただ私たちが欲しかったもの、悔いを残していることを満足させてくれる学園」
「初めはオレも戸惑ったけどね。時間の流れも一定じゃないし」
奈緒の説明に太一が乗っかった。
「時間の流れが一定じゃない?」
「そうだよ。気にしなければ、ただ流れるだけだけどその気になれば今日の後が昨日にもなったりするんだよ。お前は特殊だから気づき難いと思うけど、例えば昨日学校終わってからどこ行った?」
「どこって――」
意図の見えない疑問に戸惑い、直ぐに答えが出てこない。
「昨日は放課後に皆で夏の楽しみについて話して、それで今日こうしているんだろ」
「そうだな。それで?」
――それで? 話がまとまり日も落ちてきたから解散した。クラブ活動など特別な事情が無い限り、あまり遅くまで学校に残ることはできない。
そして今日、こうして昨日の決定を実行に移している。
「――え、どうして?」
公人は愕然と声を漏らした。分けがわからず、視線が溺れ中空をさまよう。
「大丈夫だって、別に何もおかしくないんだから」
うろたえる公人の両肩に手を置く太一。確かな感触に優しい温もり。
公人は全てを理解した。
「この世界にはここしかないんだ。だから学園生活に余分なものは何も無い。家も親もいない。まあ余分じゃないものも、無くすことはできるけどな。自慢じゃないが、オレはここで一度も授業を受けたことが無い!」
太一が片目を瞑り、声を出して笑った。それは突然伝えられた真実に失望する自分を気遣ってくれているのだと、すぐに公人は気付いた。
「はは、オレもだよ。というか、皆でいる時間以外は何もやってないよ」
「お? じゃあ仲間だな!」
そしてまた、哄笑をあげた。彼の優しさが公人には嬉しかった。
「ならさらに突っ込んだ説明もできるな。朝のホームルームで、お前何したか覚えてる?」
「朝のホームルーム? 何をしたも何も――」
今日のホームルームは担任が欠席ということで、生徒自身が仕切ることになった。それでチャイムが鳴っても一向に教室は鎮まらず、委員長がお手上げと困り果てたのを見かねて、太一を引っぱって教壇に立ち二人で雑なホームルームを決行したはずだ。
「あれ?」
「ははは、まそういうこと。お前が体験したことでなくとも、オレの方で体験したことなら不思議と記憶に蓄積されちまうんだよここ。これ本当に慣れなくてな」
「……主重みたいに何も知らない方が、順応し易いみたいだけどね」
長年の眠りから覚めるように、奈緒の膝からゆっくりと頭を上げながら亜樹。彼女の普段以上に陰鬱な表情を見て、先ほど観ることになった映像がフラッシュバックする。
「亜樹、あの……」
「いいの。もう済んだことだから、今更どうでもいい」
手を掲げ押し返すような仕草で言った。
内容が内容だけに、本人にそう言われてしまえばもう何も言うことはできない。
こんなことに巻き込んでしまったことを謝りたかったが……
「私は今みんなといれて幸せだから」
「亜樹……」
思わず彼女の飛びつこうとするのをぐっと堪える。視界の中では残りの二人が彼女に抱きついていたが、今この時においてその行為も仕方ないと納得する。
恐らく他人には及びもつかない、深く大きな傷を心に負っていながら、この仲間たちは優しく他人を気遣うことができる。悲劇の代価としてはいささか物足りない気もするが、それでも得がたい特筆すべき魅力だ。
自分だけが、仲間たちと違う。
「じゃあ俺は……?」
劣等感に苛まれながら、思わず公人は零した。
この場所についての知識も、他人を思いやる懐の深さも持ち合わせていない。なぜ自分には何も無いのか。
「俺はどうしてここにいるんだ?」
ただ人間ができていないだけなのかもしれないが、皆の口振りを思い返すとそうではないらしい。
奈緒は皆が隠してきたと言った、太一と亜樹の口振りでは二人ともこの場所に来た時点で、どういう場所なのかを理解できていたようだった。
「俺はどうして――死んだんだ?」
それを公人はまだ知らない。

長い、長い沈黙だった。
緊張のあまり時間の感覚は薄れ、数十秒の空白の間が永劫にさえ感じられる。自分に死刑判決が下されるのを待っているような心境――いや、その段階はもうとうに越えているらしい。刑は既に執行されており、その報告を聞こうとしているというのが適当だった。
本人が、ということがかなり不可思議なことだが。
ついに耐えられなくなり、重い口を開いた。
「……ここにいる人間が、みんないじめにあったりして死んじまったっていうなら、俺も同じなんだろうけど、まったく覚えてないんだ。意味の無い暴力を受けていたり――自殺をはかったりしたことを」
「主重は自分の命を絶ったりしていない」
即座にとんでくる否定の声、亜樹だった。
「この中で、そういうことをしたのは私だけ。浅生はさっき見た映像の後病院で、奈緒は故意に等しい事故よ」
亜樹が当人たちに配慮したのだろう、言葉少なく説明する。
「じゃあ俺には何があったんだ。知っているんだろ?」
亜樹、太一、奈緒。三人が一様に公人と視線をあわせるのを避けた。
間違いなく全員が知っている。
知らないのは自分だけだ。
「どうして……」
悲痛に涸れた喉から声が漏れる。幾つもの「どうして?」が浮かんでは、半身となる答えを手にすることなく消えていく。
仲間たちは何も言ってくれないのか?
自分だけが何もしらないのか?
――こんなことになってしまったの?
公人の双眸が大粒の涙を吐き出した。
拭おうとしても拭いきれない、止め処なく溢れる悲しみが染みこんだ雫。
その一つが、公人の指先から跳ね鏡へ落ち、水膜に小さな波紋が起きる。
小さく弱々しい波紋が鏡全体を覆うほど広がっていく。
その中に、また別の光景が映し出された。
「これは――」
公人は息を呑んだ。
そこに映っているのは、歳の近い制服姿をした二人の男女。
男の顔は公人だった。

 主重公人には幼馴染がいた。
家が近所であり、産まれた病院も月も一緒。その為、最初に母親同士が仲良くなり、母親に連れられ二人はよく遊ぶようになった。
保育所、幼稚園、小学校。どちらの家も、一家の長である父親が安定した職についていたこともあり、転勤は無く狭い地域の中で共に育っていく。男女の違いはあれど、既に付き合いは家族ぐるみとなっており、別々のグループに属していても学校を離れてしまえばそれまでと同じように、長い時間を共有することができた。
それもでも中学校にあがれば、付き合う人間の範囲が広がり、また思春期を迎えたことで共に過ごす時間は目に見えて減っていく。友人たちに二人の仲を揶揄されることもあり、公人は次第に彼女との接触を避けるようになった。
そして共に同じ高校へ進学、ここが二人にとって大きな分岐点となった。
周囲には見知らぬ人間ばかり、それでも人付き合いの上手く目立たないがしっかりと溶け込み、それなりに高校生活を満喫していた公人。
しかし彼女は違った。発端が何だったのかはクラスの違う公人は知らなかったが、同じクラスの女子との間に軋轢が生まれ彼女は孤立した。
そしていじめが始まった。彼女がどんな目にあっていたのか、やはり公人は知らない。
ただある時、偶然母親同士の連絡を橋渡しする為に彼女に声をかけに行った時、その異質な空気に触れた。
中学生の時に受けた揶揄とは違う、侮蔑と嘲りの臭い。
流石に気になって彼女に声を掛けるも、助けを求められることは無かった。
「大丈夫。大したことないから、気にしないで」
心配掛けまいとする、彼女の言葉を信じた。
――いや、信じたのではない。その時既に彼女のクラスメイト数人が、彼女の仲間として公人に接触し暴力をちらつかせてきていた。付き合いが薄れ数年、何よりもそれなりに順調な自分の生活を壊したくなくて、厄介ごとに関わるまいと彼女の言葉に甘えた。
今ならばはっきりと分かる。
だからそこから数ヶ月たち、ある日彼女が無断欠席していると偶然耳にした時、公人はすぐさま事態を把握したのだ。
久方ぶりに彼女の家を訪れ、窓から昇る黒煙を目にして公人は鍵の開いていた玄関から中に駆け込んだ。父親は当然のごとく仕事で留守。母親も手の掛からない娘がくれた暇なひと時をパートで埋めておりいなかった。
記憶を頼りに辿り着いた彼女の部屋で目にしたのは、炎に囲まれた幼馴染の姿だった。

「思い出した」
映像は途切れ、鏡は墨汁でも落としたように黒く染まった。
「俺、あいつを助けようとしてあの中に飛び込んで、だけど煙に巻かれて……」
膨大な記憶が頭の中に流れ込んでくるように、公人は自分の一生を思い出していく。
忘れていたのは自身の死因だけではなかったのだ。当然だがこの学園にくるまでにも人生はあったのだ。正確に言えばこの学校に来るまでが本当の自分の人生だったのだが。
「はは、ここにいるってことは俺、無駄死にだったのか――」
あの状況で自分だけが死に、彼女が助かるということは無いだろう。
火をつけたのは彼女自身だ。自殺をはかり、念入りに周囲に灯油まで巻いていたのだ。
何よりも公人には彼女を助けられたという記憶が無い。
「結局、あいつは誰にも助けて貰えず死んじまったのかよ……」
あの時、自分にもう少し勇気があれば――彼女を独りにしなければ。
それでなくとも、あの炎の中から彼女を救い出すことができれば。
公人は四肢をついて悲嘆にくれた。後悔に押し潰されそうだった。
涙は涸れ、震える喉から狂ったように嗚咽が漏れた。
「まだだよ――」
奈緒の声が鼓膜をそっと撫でた。
と、黒く染まっていた鏡が輝きを取り戻し始める。
顔を上げると、奈緒が最後のトロフィから水を注ぎ込んでいた。
「これがこの怪談の本当の姿なの」
呆然と見つめる公人に向けて、奈緒は言った。

この場所は天国でも地獄でもない。
つまり俗に言われる「あの世」という場所でもない。生と死の間。魂まで傷ついた、哀れな少年少女たちに癒しと安らぎを与える為の空間。
それが嘘か真かは分からない。それでもこの学園で過ごす生徒たちは皆、それを信じている。この場所が自分たちに与えられた奇跡の楽園だと。
「でも本当の奇跡はこっちなんだと思う。この学園に伝わる、たった一つの怪談」
トロフィから流れ落ちる水が止まった。空になったトロフィが、奈緒の手から零れ落ち金属音を響かせて床に転がった。
水は鏡の額縁いっぱいにまで溜まっている。その水面が、照明などとは比べ物にならないほど光輝いている。
「自分の過去と向き合い、それを乗り越える決心がつけばやり直すことができる鏡」
ゆらゆらと揺れる水面に、先ほどみた光景がかわるがわる映し出されている。
「やり直すことができる?」
「そうだよ。色々な要因があるけど、死ぬ直前からやり直すことができるらしいの」
奈緒がそれまでとは打って変わり、つらつらと問いに答えてくれる。
「あ、らしい――ていうのは、それを実行した人を私は知らないからだよ。いないかもしれないけど。いたとしても、この場所からいなくなっちゃうからわからない」
「やり直す、その直前から」
奈緒の言葉を聞き流しながら、公人はもう一度口にした。
一度終わってしまった人生を、全てではないが決定的部分だけやり直す。そんな都合の良いことが本当にできるなら――
「俺はもう一度、今度こそあいつを助けたい」
「ま、そうだろうな。わかっていたさ、お前がそう言うのは」
「主重は自分で思っている以上に熱血系なのよね」
公人の決意を聞いて、亜樹と太一が呆れたとばかりに嘆息する。
「戻るのは簡単なんだ。こういう風に――直接水に浸かっちまえばいい」 
言いながら太一が水の中に手をいれた。彼の腕が肘まで水に浸かってしまう。
「ちょっと怖いかもしれないけど、まあこれだけ準備を整えたんだ。簡単だろ」
腕を抜き、軽く水を切ってから太一は立ち上がった。次いで亜樹も、奈緒も腰をあげる。
察して公人も立ち上がると、太一の前に手をさし出した。直ぐに彼も手を伸ばしてきて、ガッチリと握手を交わす。
「お前が怪談の話をした時点で、こうなるとは思ってたんだ。だからまあ、今さらあーだこーだと言わないよ。ただまあ、残念だ」
「それは俺もだよ。それでも――」
「言わないでいいよ。謝ることも無い。騙していたんだし、寧ろ謝るのはこっちだろ」
この場所がどういう所か、なぜ公人がここにいるのか。全てを隠し、仮初の学園におけるクラスメイトとした。
「そのおかげで、楽しい思い出がいっぱいだよ」
太一との握手をほどくと、今度は亜樹が手を出してくる。すぐさま、強く握る。
「こういう時、ずっと忘れないとか言うものなんだろうけど、無理ね。元の世界に戻ったら、ここでのことは全て忘れてしまうから」
「やっぱりそうなのか……」
ある程度予想はついていたから驚くことは無かった。躊躇も――ほぼ皆無であった。
互いに礼を言い合って、握手を終える。
そして最後の一人に向き直り――
「な――ふぐっ!」
別れの言葉を紡ごうとした唇が塞がれた。
睫毛が絡むほど近くに、奈緒の顔があった。鼻先は触れあい、唇が重ねられている。
柔らかく温かい感触、流れ込んでくる吐息から舌が彼女の体温を感じ取る。
「行かないで、主重くん」
唇を離し、頬を赤らめながらも真っ直ぐに公人を見つめながら奈緒が懇願する。
その潤んだ瞳に別れを告げるのは、心臓を握りつぶすのと同じくらい苦しい。
けれど公人は口にする。しなければならないと思った。
「ごめん、行かなくちゃいけない」
「知ってる」
大きな苦痛を伴い吐き出された言葉は、あっさりと受け入れられた。
(……そんなわけないよな)
手のひらに深く食い込んだ指先、縮こまった肩。震える膝。凝視するまでもなく、悲哀が隠し切れずに現れている。それでも自分を送り出そうと健気に振舞う様を見て、公人も躊躇いや恐怖を抑え込もうと努めた。
「主重くんは優しくて、絶対に誰かを見捨てたりしない。同じような経験がなくても、仲良くしてくれる。だから皆主重くんのことが好きなんだよ」
奈緒の言葉に太一と亜樹が頷いた。
「だから別れるのは寂しい。会えなくなるのは、嫌」
「うん」
公人は同意する。自分も皆が好きだと、別れたくないと。
「でも行っちゃうんでしょ」
「うん」
公人は同意する。決意は揺らがないと、別れは仕方ないと。
「約束して。必ず、必ずあの子を足すけてあげるって!」
「うん」
公人は同意する。彼女を必ず助けると、約束は違えないと。
そして最後に全員に微笑むと、鏡に向けて足を伸ばした。
水は冷たくなかった。寧ろ温かいようにさえ思う。そもそも浸かっているような感触も無い。しかし足首から先は全て浸かり、自重に圧されずぶずぶと沈みこんでいく。
もう一方の足を蹴り、両足で鏡に浸かって行く。
沈み込む速度は一挙に増し、視界が打ち上げられた。
「あ――」
最後にもう一度だけ、奇跡の中で出会った友人たちの顔をみたく視線を回す。
しかし既に頭の先まで鏡に沈んでおり、願いは叶わなかった。
10
「えっ……」
扉を開けた直後、飛び込んできた光景に言葉を失った。
真っ赤だった。もう何年も立ち入った事の無い彼女の部屋。過保護な両親がよかれと仕立てた子供っぽい薄紅色の部屋が、紅蓮の炎に塗りつぶされていた。
「香奈枝!」
驚愕に揺れる視線が、偶然にも彼女の姿を捉えて公人は叫んだ。
部屋全体を覆う炎だが、まだ燃えているのは壁沿いだけだ。ベッドや本棚、勉強机とおぼしき物体は燃えているが部屋の中央はまだポッカリと無事な空間がある。
そこに千草 香奈枝(チグサ カナエ)が倒れている。
意識が無いのか、ピクリとも動かない。
もしかしたら既に――
「くそ、それがどうした!」
彼女の体は黒煙を浴びたか、薄汚れているが火傷を負ったりしているわけではない。火事について詳しくないが、酸欠で意識を失うのはよおくあると聞く。
背中が廊下の壁に触れるまで下がり、助走をつけて公人は柵のような炎の一辺を飛び越えて、部屋の中へと転がりこんだ。
すぐさま倒れる彼女に飛び付き、呼吸を確認する。
僅かだが、胸が上下している。まだ生きている。
「香奈枝、香奈枝! 起きてくれ香奈枝!」
幼少の頃よりずっとリボンで髪を結っている彼女の頭を抱き上げ、名前を読んだ。意識の無い人間相手に、それが正しい行為なのかは知らないが、何としても彼女には意識を取り戻してもらわないといけない。
二度、三度、四度……二桁に達しようという時、香奈枝の瞼が震えるように持ち上がる。
「公……人くん、どうして?」
「どうしたもこうしたも、お前が今日学校休んだって聞いて慌てて来たんだよ」
「どう……して?」
折角持ち上がった瞼だったが、その中に眠っていた双眸は死人のそれのようであった。
生気が感じられない。虚ろで病的な、何も見えることの無い暗闇を彷徨っているような瞳だった。
今この場で煙を吸い、意識が朦朧としているからではない。
いつから彼女の目はこうだったのだろう? 最後に香奈枝と目を合わせたのはいつだったか。いじめの気配を察して、彼女に調子をたずねた時だったろうか?
(あの時、俺はこいつの目を見ていたか?)
覚えていない。彼女がどんな顔をしていたのかも、その日何色のリボンをしていたのかも。無意識に彼女を拒絶していたのかもしれない。
「大切だからに決まってるだろ!」
香奈枝の腕を肩に回しながら叫んだ。耳の横に寄った彼女の口から、息を呑む音がする。
「公人くん、ごめんなさい」
「謝る暇があるなら、ここから出ようぜ」
そう言って周囲を見渡すも、辺り一体炎に囲まれ身動きがとれそうにない。
「燃やすにしたって、気合入れすぎだろ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……だって、私が死ねばお父さんもお母さんももうこの家には住めないだろうし、何もかも綺麗さっぱり無くしてしまえば――」
「あーはいはい。お前料理する時、何でもかんでも強火でやくだろ?」
香奈枝の謝罪に軽口をかぶせる。彼女は彼女なりに、傷ついた心で両親の心中を慮った末の行動だったのだろうが、それに配慮している余裕は無かった。
天井から押し潰すように迫ってくる黒煙から身を守るため、公人は中腰のような姿勢になる。この体勢では歩くこともままならない。
(とはいえ、動けたってどこに行けばいいんだよ……)
今や火の手は脱出経路である廊下にまで及んでいる。歩けたとしても、どこへ行けばいいのか。
「……今ならまだ、あそこから逃げられるんじゃない?」
そう提案する香奈枝の視線は、身を捩る炎の頭から覗く窓に向けられていた。
肩のほどの高さにある小さな窓だが、確かに人間一人通ることはできるだろうが――
横目で香奈枝の状態を確認する。両目ともピクピクと揺れ、肩を貸しているにも関わらず、浅い呼吸を激しく繰り返している。この状態では炎のカーテンを越えて、あの高さの窓から這い出るまでに焼け死んでしまう。
「公人くんだけでも逃げて……」
彼女のかすれた声が、鼓膜を撫でた。
「できるわけないだろ、俺は香奈枝を助けにきたんだ!」
即座に目を剥いて一喝する。
「でも私と一緒じゃ逃げられないよ。早くしないと、あそこも使えなくなっちゃう」
彼女の言う通り、窓周辺の炎も勢いを増している。それどころか、煙も溜まり始めもう間もなく近づくことすらできなくなるだろう。決断は迅速に行わなくてはいけない。
――迷うことなんて無い。
香奈枝を必ず助けると誓ったのだから。
「俺が足場になるから、香奈枝が先に行け!」
「え、ちょっと?」
言うが早いか、香奈枝の腕を肩からおろし公人はしゃがみこんだ。そして中腰でおんぶするように彼女を担ぎ上げると窓へと近づいた。
「公人くん、駄目だよ。降ろしてよ……」
「喋るな、煙吸っちまうだろ!」
出来る限り窓に、その下部で燃え盛る炎に近づく。
「届くか?」
「う、うん。届くけど……」
香奈枝の指が、窓のレーンに引っかかる。それを確認して公人は一端体を沈みこませると、香奈枝の両足を掴んで一息に押し出した。
「きゃあ!」
短い悲鳴をあげて、香奈枝の体が浮き上がった。そのまま窓枠を越えて落下しそうになる所を、ギリギリで引き止める。
「ぐわぁ!」
今度は公人が悲鳴をあげた。ギリギリまで窓に、炎に近づいた為に服の一部に炎が燃え移った。半ばパニックになり、後方へ倒れこむと床に体を叩きつけて火を消す。
「公人くん、はやく!」
香奈枝が目いっぱい手を伸ばし叫ぶ。しかし二人の間を割るように、本棚が倒れこみキャンプファイヤーのように激しい炎を吹き出す。
「とにかく先に逃げろ香奈枝!」
「駄目だよ、怖いよ!」
「大丈夫だ。落ち着いて行けば、怪我することも無い高さだから」
「怖いよ……」
だが公人の説得には応えず、もう一度、香奈枝は口にした。
炎の向こうに見える彼女の瞳が、はっきりと感情を取り戻しているのが見てとれた。
その双眸を見て、彼女が恐れるものは地面までの距離ではないと悟った。
彼女が恐れているのは孤独だ。この後に再び訪れるかもしれない孤独。家を失い、家族に迷惑を掛け、そして――
「俺は大丈夫。さっきお前が言ったろ、一人なら逃げられるって。寧ろお前がそこにいたら、かえって逃げられないって」
窓枠に跨り、恐怖に引き攣った香奈枝の顔が、少しだけほぐれていく。
「んでさ、しばらくは俺の家に泊まっとけよ。部屋はねえけど、まあ寝るスペースはある」
「公人くん家に……」
「あ、勿論おじさんやおばさんが許可したらだぞ。無断でしたら、俺が怒られる」
香奈枝の顔に、笑みすら浮かびそうだった。
嘘も方便ではないが、自分の役者ぶりに感心していた。迫る死の恐怖に足を絡め取られ、一歩も動けそうに無い。助かる為の方策は、何一つ思い浮かばない。
それでもできるだけ陽気に振舞う。今この瞬間だけ、香奈枝を安心させその窓から逃げ延びさせるだけの強がりで十分。それ以上の勇気はいらない。
「絶対だよ、嘘吐いちゃ嫌だよ」
これが最後だと、公人は渾身の笑みを浮かべた。
香奈枝の姿が、窓の外へと消えていった。
公人の膝がぽっきりと折れその場に崩れ落ちた。床に置いた指先が何かに触れた。見れば暖色系のリボンが一本落ちていた。
「これ、香奈枝のか……」
見覚えのあるリボンを摘み上げた。
――その直後、焼け焦げた天井が剥がれ落ち公人の体を押し潰した。衝撃に床が抜け、やがて二階部分全体が崩れ落ちた。

 無数の瓦礫に埋もれながら、公人は意識を取り戻した。
体の感覚が全て消失し、それでも残っているものがあった。
思考、記憶、想い。
そういえば香奈枝がリボンをつけ始めたのは、小学生にあがってしばらくの頃だった。
幼稚園の頃は活発に動き回っていた彼女も、大きくなるにつれ次第に女の子らしさを求めるようになり髪を伸ばし始めた。しかし小学生では体育の授業で、性別に対する配慮が薄く、長い髪は邪魔にしかならなかった。
それを改善する為に、髪型を変えたり、ヘアピンをしてみたりと色々工夫を凝らしていることがあった。その時、リボンをつけていたのが最初だった。
ヘアピンや、髪留めのゴムではなく、鮮やかな青色のリボンは巻けられた黒髪の中でよく栄えて見えた。
かわいいね、と言った覚えがある。
それから香奈枝はリボンをつけるようになった。それがどういうことか、気付いていないわけではなかったが、特にどうしようという気もなかった。
けど今は違う、もう一度香奈枝に伝えたい。
彼女に知って欲しい。
生きて、もう一度だけ――
やがて真っ暗な視界の中に光が差し込んでくる。
「おい、こっちだ。ここにいるぞ!」
光の向こうから声がした。荒々しく、力強い声が幾つも。
次第に体が浮き上がったように軽くなっていく。
「会いたい……」
眩しさに目を瞑り、公人は呟いた。
11
「ねぇ起きて、起きてよ……」
夜空のように暗く、けれど砂粒ほどの星も見えない深い闇が揺れる。
優しい声だった。何かを求めていながら決して強制しようとしない、慈愛に長けた温かい声音だ。その声を受けて、真っ黒な世界に波紋が起きる。
波紋はやがて波となり、自身と共に深い闇を押し流していった。
残ったのは鋭く痛いほどの光。
「――くん、起きてって……」
次いで覚えたのは――
「あつい……」
公人は目覚めるなりそう呟いた。
全身を薄いヴェールに覆われているような、半覚醒といった状態だが暑さだけははっきりと感じ取ることができる。汗によってワイシャツが背中に貼りつき、額から浮き出た汗がなめくじのように顔を這い回るような不快感が、その感覚を強固なものにしている。
上体を起こし「うーん」とうめきながら腕を高く伸ばす。
「ようやくお目覚めね――主重くん」

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