スウィートハートチョコレート、ココナッツキッス



 人の性格はその人物の生活する部屋に現れるなどと言うが、それは誤りである、と耕太は思う。そういったものが現れるだけのスペースと物のある、『ゆとり』ある人間にのみ当てはまる事で、自分の様なケースには当てはまらない、否。そもそも勘定に入れていない、傲慢な話だと、自分の起居する三畳間を見て溜め息をついた。
 褐色に色づいた畳はあちこちささくれ、所々何を零したのかどす黒い染みまで出来ている。
 特に、部屋に唯一つだけの窓際は酷かった。墨汁でもぶちまけたのか、殊更ここだけ染みが大きいのである。
 耕太が越してきて一度きり立ち寄った兄も、それを見るや「ここじゃ人が死んだ事でもあるのかい? お前、これはきっと人の血だぜ」と顔をしかめたのだった。
 初めの頃は耕太も薄気味悪く思い、極力見ないように少ない物で隠したりもしてみたのだが、慣れてしまえばただの古い汚れで、帰ってくるなり目に飛び込もうが、今や気にもとめなくなっていた。
 この部屋にある物といえばビニル袋に詰めた数日分の衣服と、タオルケット。後はどこぞの居酒屋からくすねてきたアルミの灰皿くらいのものである。
 したり顔で、部屋で人の性格を判断できるだのと豪語した、アルバイト先のいけすかない女子大生をここまでつれて来て、「そら、判断してみせろ。出来やしねえだろう」と嘲笑ってやりたかったが、そんな事をした所で虚しさが増すだけだと言うことは、それなりに生きてきた経験の中で知っていた。何よりそんな事をすれば、せっかく見つけた月払いの仕事を、辞めざるを得ない状況になってしまう。
 とにかく今は金を貯め、もう少しマシなワンルームマンションへ引っ越したい。それが耕太の今一番の望みだった。
 部屋で人の性格を云々を否定しながらも、やはり人間の住んでいる所とその人間の程度と言うものはどうしても伴うのだという事を、耕太も心の底では気付いていたのだ。
 耕太の住んでいる小瀬村荘は古い木造二階建てで、全室三畳一間。便所と炊事場は共同である。駅からもまぁ、近く、家賃は月八千円。破格ではあるが、好んでこんな所に住もう等と思う人間はまずいないだろう、と耕太は思う。ここに住んでいる人間はみな、『ここ以外に住む場所を選べない人間』なのだ。
 一階の廊下突き当たりにある便所には、トイレットペーパーなぞ気の利いた物は無く、隅に小さく切った古新聞が重ねて置いてあるのである。いつ行っても何処かしらに汚物が飛び散っており、汲み取り式の便器からは戸を閉めても糞の臭いが漂ってくる。便所のすぐ側と言う事で耕太の部屋は家賃が他より千円安くなっていたが、これには未だに慣れなかった。起き抜けに誰かが便所に入っていく音を聞くと、もうそれだけでその日は何もする気がなくなった。
 そして何より、住人である。
 現在このボロアパートには五人の住人がいる様(大家の談では)なのだが、うち三人は姿を見た事が無い。耕太自身、日雇いの派遣を辞めて夜勤仕事になった事で昼夜逆転の生活になっていた事もあるのだろうが、生活の気配というものすら感じられないのである。   
 この三人に関しては問題ないのだ。顔を合わせないと言うことは居ようが居まいが関係ないと言うことである。問題は残りの二人だ。
 一人は天海《あまみ》という名の初老の男で、精神異常者であるらしく、以前自室の前に七輪を出し、湯飲みを網の上に載せてじっと眺めているのを見かけた。気味悪く思いながら通り過ぎようとすると、くるりと耕太の方を向いてニヤっと笑ったかと思うと、その場で思い切り排便し、げたげた笑い転げたのである。
 いつもよれよれのランニングに薄汚れたジャージという出で立ちで、ルンペンと見紛う風体。風呂にも入っていないのだろう、側を通ると饐えたような嫌な臭いがした。通学路に現れ、子供を追い掛け回した事もあるらしく、近隣では危険人物として疎まれているという。
 始末に終えないのが耕太の部屋が便所の側であるため、用を足しに来た天海とばったり出くわす事がままあるという事である。その度耕太の方をじっと見、半開きの部屋をぬっと覗き込み、げらげら笑いながら便所へ入っていくのであった。
 もう一人は三浦というガリガリに痩せた長髪の若い男だった。耕太の隣室に住んでおり、耕太にとっては彼こそが小瀬村荘で最も厄介な住人かもしれなかった。
 偏執狂の気があるらしく、耕太が部屋で少し大きな物音を立てると思い切り壁を殴るのだ。一度今の仕事が決まり浮かれた耕太がさんざんに酔っ払い、夜中に歌なぞ歌いながら帰ってきた時には、隣室から凄まじい悲鳴が聞こえたかと思うや激しくドアの閉まる音が聞こえた。何処かへ出かけたのか、と思っていると荒々しくノックの音がする。「こりゃ文句の一つも言われるのかな」と恐る恐る出てみると、案の定三浦で、血走った目で唇をわなわな震わせ、どうやら尋常の様子ではない。と、彼の手にある物を見るや、耕太は腰を抜かした。震える手に握られていたのは、寿司職人が持つような刃渡りの長い包丁で、それでもって小刻みに、ドアの外側をガリガリと引っかいているのである。
「ししししししずずかにししししろろろ、こ、こえ、声がうるさささいんだよ!」と怒りの余り舌も回らない様子の三浦に詰め寄られ、腰を抜かしたまま必死で謝ると、何とかとり合ってくれた様子。鼻息も荒く自分の部屋へ帰って行ったが、以来耕太は可能な限り静かに暮らす様心がけているのだったが、それからも度々同じ様な事があったのだった。
 そんなきちがい連中と同じアパートに住んでいる、と言うことが、耕太は嫌で嫌でたまらなかったのである。近頃では、道ですれ違う近所の人がみな、自分もこれらの異常者の仲間だという風に見ているのではないか、いやそうに違いないという、強迫の念に苛まれ、極力人気の無い道を選んで歩くようになっていたのだった。
 気が付けば五本目の煙草が灰になっており、畳に落ちた。片付ける気にもなれず、適当に手で払い飛ばし、ごろんと横になる。
 働き出した居酒屋はこれまでの倉庫整理とは比べ物にならないくらいに忙しかったが、仕事に没頭する事で時間の経過は驚くほど早かったし、給料も悪くなかった。このまま上手くいけば三ヶ月の後にはこのきちがいアパートを出て行くことが出来る。今の耕太には、それだけが日々を生きるための糧だった。
 高校を卒業するや家を出て、この街へやってきたが、まず始めに酒と女を覚えたのがまずかった。日雇い仕事で稼いだ金を、その日のうちにそのいずれかにつぎ込んで、朝になればすかんぴんという様な事を繰り返し、たどり着いた今である。
 思考をどんより支配していく模糊を、なんとか追いやってようやく耕太がうつら、うつらとし始めた時、いつか聞いた絶叫が隣室から聞こえてきた。
 当然何事か、と飛び起きたが、先までまどろんでいた耕太には勿論身に覚えなどない。
 天海のいかれ親爺がまた何か騒ぎ立てたのだろうか。そういえば前にも三浦と揉めていた。揃い揃ってどこまでも迷惑な連中だ――。
 舌打ちして再び横になろうとした所で、いつかのようにドアが激しくノックされた。
 ――三浦だろうか?
 しかし何故自分の部屋へ来るのだ。眠りかけていた時にうっかり壁でも蹴ってしまったのか? 
 ドアを開けるか逡巡していると、例のガリガリ何かを引っかく音が聞こえてきた。
 間違いない。あのいかれは今日も刃物を持っているのだ。冗談じゃない。俺が何をしたと言うんだ。
 暗澹とした心持ちで起き上がると、慎重に、少しだけドアを開けた。
 案の定、そこには三浦の血走った目があった。そう思うや開いたばかりのドアの隙間から、ぬっと顔を入れ、目茶苦茶に喚きながらそのまま扉を開けようと手をかけてきたのである。
 三浦の暴挙に驚愕しながらも、開けられてなるものか、とドアから覗いた三浦の顔を力いっぱい殴りつけた。「ぎゃっ」と呻き声を漏らし、顔は引っ込んだが手だけはまだしっかりとドアにかかったままである。
「一体何だっていうんだ。好い加減にしねえかきちがい野郎め!」
 怒鳴りつけ、思い切りドアを閉めてやると、ドアにかかったままの指は思い切り挟まり、外で鋭い悲鳴が上がった。  
「今日ばかりは音がどうのなんて言わせやしねえぞ。俺はつい先まで寝ていたんだ。聞こえたか? 寝ていたんだよ。そら、どうやって俺がてめえに迷惑かけたって言うんだい。ええ? 解ったらとっととどこへなと失せやがれ。さもないとすぐにポリ公を呼んで、豚箱にぶち込んでもらうからな」
 これまでの鬱憤を吐き出すように、一気に捲し立てた耕太だったが、内心まずいことをした、とも思っていた。
 もし三浦が怒りに燃えて本気で復讐を考えたりすれば、面倒臭い事この上ない。本当に警察を呼ぶ気は無かったし、何より自分は先まで眠りに着こうとしていたのだ。これ以上邪魔が入る様な事は勘弁して欲しい。今夜も仕事があるのだ。
 しかし耕太の懸念とは裏腹に、表はしいんとしており、ドア越しに人の気配も感じない。
 息を潜めているのか? 
 なおも用心深く気配を探っていると、ドアの開閉音が聞こえた。隣の部屋だ。三浦は部屋に戻ったのだ。
 ――なんだあの野郎。結局何をしに来たのだ。いや、俺が強く言ったのが堪えたのだろうか。きっとそうだ。案外ああいう奴ほど心根が臆病に出来ている物なのだ。あの性格はその裏返しなのだろう。こんなことならもっと早くに怒鳴っておくべきだったな――。
 などと調子のいい事を考えながら、もう一度施錠を確認し、床に就いた。
 ふと、手に嫌な感触。
 見ると長い髪の毛が何本か絡みついていた。
「畜生、あの野郎のだな」
 忌々しげに吐き捨て、窓の外に投げ捨てた。
 はて一体いつこんなものが絡まったのか、という事を考える余裕もなく、そのままばたんと横になると、すぐに鼾をかきはじめたのであった。

 
三浦が自室で首を括って死んでいるのが見つかったのは、それから三日の後だった。


警察の長い聴取から解放されると、時刻は既に正午を少し過ぎていた。

 三浦の襲撃から三日目の朝方。仕事から帰るといつものボロアパートの側に何台かパトカーが止まり、物々しい雰囲気。野次馬もちらほらいる。
さてはついに天海のいかれ親爺が何かやらかしたのか、これで奴の顔を見ることも無くなるのではないか、と少しばかり期待したのだが、廊下に入るとそうでないことがすぐに解った。
三浦の部屋のドアが開け放たれ、数人の警察官がその前で何やら話し込んでいるのである。
何が起こったにせよ、関わるのは御免、と足早に部屋に入ろうとして、三浦の部屋の中が視界に入った。
思わず足が止まった。
畳、壁、窓、カーテン、天井、とにかく四方八方ありとあらゆるところに、何か言葉が目茶苦茶に書きなぐってあるのである。
その中でも特に一角、字の上に字が重なりすぎて、真っ黒になっている所があった。耕太の部屋に通じる壁である。
「ああ、あなたここに住んでる人?」
しまったと思った時には遅かった。恰幅のいい中年の警察官が、耕太の前に立っていた。
「はぁ…、そこの部屋に。何かあったんすか?」
「ここに住んでる三浦さんがね、首括っちゃったみたいで。大家さんが見つけて通報してくれたんだけど。ここ二、三日のうちみたいなんだけど、おたく、何か気がつかなかった?」
「いえ…、この通り昼夜逆転の生活ですし、付き合いも無かったから…」
三浦が死んだ。ここ二、三日? 
耕太の頭に三日前のあの不可解な襲撃が浮かび上がった。
あの後死んだって事なのか?
三浦などどうくたばろうが知った事では無い。同情すらひとかけらも浮かばぬし、むしろ疎ましく思っていた分せいせいとした気分ですらある。
それなのに耕太は胸の内に、じんわりと、暗い何かが広がっていくのを感じた。
「あの、その部屋、何て書いてあるんです?」
部屋中の殴り書きを指差し、耕太が尋ねると、警察官も部屋を振り返り、眉をひそめ、「ああ」と漏らした。
「うるさい、だの、声、だの。よっぽど神経質だったのかね、あんた、そんなに騒がしくしてたの? や、別に咎めてるんじゃないよ。こりゃどう見ても、こっちがちょっと異常だしね――」 
その後、普段の隣人の様子や、耕太自身との関わりなぞをこと細やかに聞かれ、やっと今開放された次第なのである。
部屋に一人になり、一服つけると、どっと疲れが湧いた。
ふと、窓際の染みに目が留まった。
ギョッとした。そこにはばらばらと髪の毛が落ちているのである。
長く黒い髪の毛である。間違いなく、耕太のものではない。
――あの時の、三浦の髪の毛か? いや、確かに窓の外に放り捨てたはずだが…。
気がつかぬ所に落ちていたものが何かの拍子に出てきたのだろうか? それにしたって、こんなに落ちていれば気がつきそうなものだ。 
――今日は既に仕事を休む旨を連絡してある。疲れているのだ。慣れない仕事に、おまけにこんな異常者ばかりのアパートに暮らしているのだから無理も無い。心など休まらぬ。気晴らしに飲みに繰り出そうか。こんな陰気な所にいたのでは、益々気が滅入る一方だ。そうだ、それがいい。 
半ば無理矢理に自分の中で結論付け、散らばった髪をまとめてまた外に放り、耕太は部屋を出た。
便所の前に、天海が立っており、じっとこちらを見つめていた。
心底うんざりしながら、目を合わさぬように足早に外へ向かおうと耕太が動くと、「ぎゃあっ」と絶叫し、凄い速さでアパートを飛び出して行ってしまった。
もうあの男の奇行には驚くまいと思っていた耕太だが、これまでにない反応が少し気にかかった。
――あの表情はなんだ? 明らかに怯えたような顔をしていた。
が、考えた所で狂人の胸の内などどうせ理解できぬし、そもそも何か理由があると考えるのも徒労である。いつもと同じ。そう結論付け、耕太もアパートを出た。

 天海が凝視していたのが、実は耕太ではなく、耕太の背後であった事など、耕太には知る由も無かった。

 ○
大家の端村がやってきたのは翌日の昼過ぎだった。本来なら徴収は昨日のはずだったのだが、三浦の件でそれどころではなかったらしい。それでも、翌日にはもう取り立てにくるのだから大したものである。
昨日、ちょいと一杯と出掛けた耕太であったが、久方ぶりの酒に気分も大いに盛り上がり、結局帰ったのは明け方だった。起き抜けの重い頭を振り、端村に金を払った。
初めて会った時に五十五だと言ったが、外見は七十だと言われても信じるであろう程に老けて見えた。人の良さそうな顔をしているが、時折漏らす笑い声が酷く下衆染みており、どこか小ずるそうな目も胡散臭く、耕太はあまりこの男が好きになれなかった。
加えて一度話しだすといつまでたっても終わらない長話の癖にも閉口していた。 
「はい、どうも。確かに頂きました。…ところで、御桜さん。あんた、も若いねえ」
端村はいやらしくニヤつきながら、からかう様な調子で耕太の肩を突付いた。
「何がすか?」
どうも今日は長話につき合う気分になれない。昨日の三浦の一件で、耕太はひどく疲れていたし、その後の痛飲のせいで頭はガンガン痛んだ。早い所帰ってくれないものか。そう思うと、どうしてもぶっきらぼうな言い方になってしまう。
「何がってあんた、コレでしょうに」
節くれだった醜い小指をぴんと立てて見せる。
女?
勿論耕太には付き合っている女などおらず、どころかまともに女と喋る機会など仕事中くらいしかありはしない。それとてせいぜいが所天気がどうだとか昨日の晩飯は何だったなど、どうでもいい事を二、三やり取りして終いである。
何よりこのきちがいアパートに女を連れ込める程、俺は図太くも馬鹿でもねえや、と耕太は内心毒づいた。
第一、女を連れ込んでいちゃつこうものなら、隣室の三浦が青筋立てて飛んできて、また刃物をちらつかせるに違いないだろう。度胸試しにしたって、そんな事は御免である。
――まあ、もう居ないから、その心配はないのか。
ところが大家は何を馬鹿なと笑うのである。
「何もあんた、悪い事してるんじゃないんだから。隠さんでもいいでしょうに。照れる様な歳でもあるまいに。私だってね、この間ちゃあんとこの目で見てるんですよ」
この親爺は何を言っているのだ?
照れるも隠すもあるものか。事実として、俺にはそんな女は一人もいないし、見られる様な事をした覚えも無い。風俗だって、ここしばらくとんとご無沙汰なのである。
「ちょっと待ってください。本当に訳がわからない。一体、何を見たっていうんです?」
怪訝な顔で訊ねる耕太に大家は半分呆れた様子で、「窓際で抱き合ってたでしょうに。いや、あんたが抱きつかれてたのか。どっちにせよまあ、情熱的なこった。少し羨ましくなりましたよ。うちなんかはもうとうに――」
そうしてまた始まった大家のだらだらとした長話も、既に耕太の耳には入らなかった。
何を馬鹿な。そんな風に軽く流す事が、耕太には出来なかった。
三浦の部屋の落書きが脳裏に甦ったのである。
『声が、うるさいんだよ』奴はそう言っていなかったか。
三浦はおかしかったのではなく、本当に奴には声が聞こえていたのではないか。そのせいで、奴は精神に異常をきたしたのではないか。すると部屋に落ちていた髪の毛は三浦のものではなく――。
――どうもいけない。端村の親爺のせいで、考えが全部怪談染みた方向にいってしまう。
まだ話し足りない様子の端村を挨拶もそこそこに追い返し、立て続けに何本も煙草に火をつけた。
心を落ち着けようとしているのだが、新しい煙草に火をつけるごとに、心に宿った不安は大きくなっていく様な気がした。
自身が、努めて例の畳の染みを見まいとしている事に気付いた時、その小心を恥じた。
「何だ畜生。ビクビクしやがって、俺は馬鹿か。いけすかない隣の野郎が発狂して死んだ。それだけの話じゃねえか。大家の親爺の話だって、あのじじい、耄碌し始めているに違いねえ。おかしなこと言いやがるから、いけねえんだ」
弱気を振り払うように立ち上がり、窓を開ける。午後の日はもう大分傾きかけている。
――そうだ、今日は仕事だってあるんだ。少しでも余計に眠っておかないと。
煙草を揉み消そうと灰皿に向き直った耕太は、そのまま硬直した。
いつの間に入ったのか、玄関に天海が立っていた。
しかし真に耕太の身体を凍らせたのは、天海の尋常ではない様子だった。
ガタガタと震えながら、しかしその手にはしっかりと、大きな鉈が握られていたのである。
それだけでも十分にまともではないのだが、何より、その顔には一目でそれと解る恐怖の色が見て取れた。 
見詰め合うこと数妙。あまりの事に声を出す事も叶わず、口を開けたまま唖然とする耕太のもとへ、鉈を振り上げ、突如猛然と天海が突進してきた。
既の所で振り下ろされた鉈を躱した耕太は、刃が深々と、例の畳の染みに食い込んでいるのを横目に、そのまま玄関へ脱兎の如く駆け出した。
三畳間の事である。三秒とかからず部屋から出られる、部屋から出さえすれば、逃げ切る事は容易である。
その筈だった。
――玄関を目の前にして、何かに足首をつかまれる様な感触。仰天の間もそこそこに横転。急いで立ち上がろうとするが、足がうまく動かない。
半狂乱で振り返り足首を見る。何も無い。が、耕太は見た。足首に残った痣。丁度強く手で握った時に残る様に、赤くなっている。続いて見上げた先にあったのは、次こそは仕留めんとばかりに迫る天海の狂気と、不可解な怯えの入り混じった瞳。振り上げられた鉈。
衝撃。鮮血。
阿呆の様に口を開け、そのまま耕太はばったと倒れた。
体から力が抜けていく――疲労困憊で眠りに落ちるときの様な感覚に襲われながら、耕太が視界の隅に捉えたのは、わけのわからない事を喚き散らしながら走り去っていく天海の後姿。畳にしみこんでいく、流れ出た自分の血。窓際の畳の染み――その真上に立ち、じっと自分を見つめる、長い黒髪の女。
女がゆっくりと近付いてくるのを感じながら、そこで耕太は事切れた。
開け放たれたままのドアが、静かに閉じた。 

 ○
小瀬村荘裏に流れるどぶ川の対岸。コンクリートの堤にもたれ掛かり、夕焼けに照らされた濁った水をぼんやりと見ながら煙草をふかしていた端村は、ふと顔を上げて、目に入った光景にやれやれと苦笑いを漏らした。
彼のいる場所からは、対岸のアパートの部屋の窓が見えるのだが、丁度真向かいの一○三号室の窓にはカーテンもなく、中の様子が丸見えだった。
玄関のすぐ側に仰向けになった若い男の上に、顔は良く見えないが髪の長い痩せた女が覆い被さるようにして口付けている姿がはっきりと見えたのだ。
この距離からでも二人の睦言と忍び笑いが聞こえて来る様な、甘い恋人同士の情事。端村の目にも、恐らく他の誰の目にもそう映っただろう。
「カーテンくらい付ける様言ってやらにゃ、今に出歯亀が集まっちまうなァ」
年甲斐もなく赤面して独りごちると、自分もそうなっては大変、とばかりにいそいそとその場を後にした。
やがて日は落ち、どっぷりと夕闇に沈んだ一○三号室に、二つの影も溶け込み、消えた。





最初へ 前話へ 目次へ 次話へ 最後へ