夢見るぼっちの三なすび



 ひどく古い夢を見た。

 子どもの頃母親に買ってもらった玩具の手鏡。

 周囲にはたくさんの人がいるのに私は一人ぼっちで、みんな私を遠巻きに見るだけだ。

 でもそんなことお構いなしに私は鏡で一人遊びをしているのだ。

 私が右目を閉じれば鏡の中の私は左目を閉じる。

 私が左目を閉じれば鏡の中の私は右目を閉じる。

 右を向けば左を向き、左を向けば右を向く。

 最初は私が先行していたのに徐々にずれが生じ、ついに鏡の中の私に追い越されてしまう。

 私が上を向こうと思った頃には鏡の中の私は空を見上げるようになり、

 私が笑顔を作れば鏡の中には泣きそうな私の顔が映る。

 ついには私が鏡の真似をするようになり現実と鏡の世界が逆転し、虚像と実像が入れ替わる。

 そして――

 

 

 ――そして、授業終了を告げるチャイムで目が覚めた。どうやらまた私はうたた寝をしていたらしい。

 昼食に向かうクラスメイトたちを眺めながら、しばしまどろむ。

 手鏡は……鞄の中だ。

 それにしても、最悪のタイミングで目が覚めてしまったようだ。

 周囲を盗み見るがユメノの姿はない。食堂か購買か、仲の良いクラスメイトと出ていってしまったのだろう。

 他のクラスメイト達も教室内外でグループを作り思い思いのランチタイムを過ごしている。

 一人ぼっちなのは、私だけだった。

 授業中は、まだ良い。たまに難儀することもあるが、大抵は個の集合体でしかなく、孤独を感じることもない。

 しかし休み時間は違う。黒板に集中していた生徒の意識が一気に拡散し周囲に向けられる。如実にグループで群れる輩が増え、群れずに個のままの私は自然と悪目立ちしてしまう。一刻も早く教室から逃げなければならない。

 しかし、静かに席を離れたつもりでもどうしても私は目立ってしまうらしい。遠巻きに観察しているクラスメイト達の視線と話し声が背中にちくちくと刺さった。

 それらに気づかないふりをして、私は教室から脱出した。一人ぼっちの私はいつもの隠れ場所に逃げるのだ。

 いつもの隠れ場所。屋上手前の踊り場。

 立ち入り禁止の看板とバリケードがあるため容易には入れはしないのだが、それさえ抜けてしまえば踊り場には行けるのだ。もちろん、屋上みはしっかり鍵がかけられているため入ることはできない。「生徒の間で代々受け継がれてきた屋上のカギ」なんてものがあれば良いのだが、存在していたとしても私の手元にはきっと回ってこないだろうし、そこまでは望まない。

 ただ一度。

 一度くらいは、屋上からの景色を見てみたいと思わなくもない。

 訳なのだが。

「今日も異常なく施錠されてるわね」

 ドアノブから手を離し、腰を下ろす。

 階段の踊り場。狭いところだ。

 けれど、がんばって両手を伸ばせば壁についてしまいそうな空間だけが、校内で唯一のパーソナルスペースなのだ。

 そこではたと気づく。ああ、やってしまった。鞄を教室に忘れてしまったのだ。

 ここでいつも食べているカロリーメイトもミネラルウォーターも、暇つぶしに使う手鏡も全て鞄の中だ。

 今さら鞄を取りに行くようなことはしたくないし、どうしたものだろう。

 諦めて壁に背を着け目を閉じる。

 授業が始まるまで、ここでこうしていよう。空腹は耐えればいいだけだ。

 ……どうして、私はこそこそと隠れるような真似をしなければならなくなったんだろう。

 ああ、空腹と空しさで死んでしまいそうだ。

 入学当初は気持ちよく眠ることができたはずだ。そこでついうっかり定期試験で学年トップなんてなってしまったばかりに……!!

 ユメノはおめでとうと言ってくれたけれど、寝てばかりの癖に満点なんて取ってしまったものだから、僻まれるし気味悪がられるしでめでたいことなんて何もなかった。

 おかげで周囲に人が寄り付かなくなり、何度かトップを防衛しているうちにクラスメイトだけじゃなく教師までもが私と距離を置くようになり、ついには起きている方が不気味がられるようになった次第である。

 さて、どうすればお友達というものは出来るのかしら。今日も思案していると、足元が何やら騒がしい。

 どうやら下のバリケードの方に誰かが来たらしい。

 こっそり覗いてみると、クラスメイトの火迎さんと見知らぬ茶髪の女子生徒の姿が。

 茶髪の手にはおおよそ似つかわしくない小さく可愛らしいお弁当。中身は見えないけれど、とても美味しそうだ。

 ……これはアレだろうか。噂のお弁当の交換というやつだろうか。

 私も混ぜてもらえないだろうか。今の私は交換するものなど持ち合わせてはいないが。交換できるのは鞄の中のカロリーメイトくらいのものだ。

「楽しそうね。よかったら私も混ぜてくれないかしら」とかなんとかさり気なく、がっつかない様に相手の目を見て話す。人に頼みごとをする際は必ず相手の目を見てっていうものね。

「あたしらに言ってんのか、アンタ」

 アンタ?

 周囲を見回すがどうもそれらしい人物は確認できない。

「……あら?」

 火迎さんもぽかんと口を開けてこちらを見ている。

 どうやらアンタというのは私の事らしい。ああ、そうか。

「……私、声に出しちゃってたんだ」

「ケッ、笑えるぜあんた。ジャックレモンも真っ青だ」

 心底つまらなそうに吐き捨て茶髪が去っていく。

 なにか気に障る様な事でもしたのだろうか。

「さてと」

 茶髪が置いていったお弁当の包みを拾い上げる。

「どうぞ」

「……あ、ありがとうございます」

 火迎さんがおずおずと手を伸ばし、遠慮がちにお弁当を引っ張る。

 引っ張る。

 返そうにも私の手がお弁当の包みから離れないのだ。

 お腹が鳴る。あらやだ恥ずかしい。

「…………」

「…………」

 反応に困っているようだ。

「あ、食べますか?」

 空腹の身には非常にありがたい申し出。

 でも、この匂いは……。

「……ナス」

「はい! ナスの焼きびたしです!」

 言葉と共に小さなお弁当箱……もといパンドラの箱が開かれる。

「焼きナスはご飯に合うんですよ~!? それにこれ、フライパンじゃなくてオーブンで焼いたから油も使ってないしとってもヘルシーで……」

 滔々と語る様を見て、軽く目まいを覚える。恐ろしいことに彼女は身も心も紫色に染まり、もはや茄子なしでは生きていけなくなってしまっているのだろう。

 斯くもナスは人を狂わせる。これだから私は茄子が苦手なのだ。

「さあさあどうぞ、遠慮せずに一口だけでも食べてみてください。自信作なんですよ!」

 かわいらしいお弁当の箱の中から、おおよそ地球上の植物とは思えない紫色がぬらぬらとこちらを見つめうごめいている……ような気がする。

 ああ、もうダメだ我慢できない。

「そ、そんなもの近付けないで……」

 ああ、ダメだ。ナスの匂いのせいで力が抜けて、廊下にへたりこんでしまう。

 タイムリープしそうだ。しないけど。

 前回はしば漬だったか。意識を失ってしばらくしばらく動けなかったのは記憶に新しい。

「ご、ごめんなさい・・・・・調子にのっちゃって!」

 横たわる私を不安げな目で見つめている彼女。

 ああ、悪いのは貴女じゃないの。

 ナスが全て悪いのよ。そう言ってあげたかったが、もう声も出ない。

 どこか遠くに茄子の花の香りを感じながら、私の意識はそこで途絶えた。

 

 

 

 

「目を醒ましちゃダメだよ。そのまま、目を開けてごらん」

 ユメノの声に誘われ、ゆっくりと目を開ける。

「朝だよ、ヒメ。おはよう」

 眠い目をこすりながら声の方を向くと、私と同じ制服に身を包んだ少女が溢れんばかりの笑顔をこちらに向けていた。

 枕の高さでスカートが揺れる。

 これは……だれだろう。

 なんとなく、さっきまで見ていた夢の中で会ったことがある気がする。

「ボクが誰だか分かる?」

「……ユメノ」

 ああ、そうだ思い出した。ユメノだ。今日も今日とて私を起こしに来てくれる、私が友人と呼べる唯一の存在。

 どうして思い出せなかったんだろう。夢を見ていたからだろうか。

 ……夢?

 そう、珍しく夢を見ていた気がするけれど、どんな内容だったろう。

 ダメだ、どうにもふわふわしていて思い出せない。

 夢から醒めきっていないというか、地に足がつかないというか……なんだか落ち着かない感じ。

「いかにも寝起きって顔してるね」

 ユメノが男の子みたいに笑ってみせた。少し眩しい。

「分かってるなら入ってこないでくれるかしら。せめてノックくらいしなさい」

 寝起きの顔なんてそう見られたいものではない。

「自分の部屋に入るのにノックは必要?」

「ここは私の部屋よ」

「同義語だね」

「対義語よ」

「うーん、対義語はちょっと違うんじゃないかなぁ」

 ああもう、うるさい。寝起きの頭で頭が回り切っていないのだ。

「……すぐ行くから外で待ってなさい」

「りょーかい! すぐ来てよね」

 朝から見るには少し辛い眩しすぎる笑顔で、ユメノが部屋から去っていった。本当なら二度寝をしたいところだけれど、彼女のおかげですっかり目が覚めたしそうもいかない。

 ユメノのおかげで授業に遅れずに済むと感謝している半面、彼女のせいでサボることが難しくなっているのだと思うと少し疎ましい。

 今日のように夢を見た日は特にそうだ。学校へ行くのも億劫になる。

 適当に身支度と朝食を済ませて家を出ると、外で待っていたユメノと目が合った。

「待たせたわね。行きましょう」

「あいあいさー」

 ユメノが踊るようにくるりと回る。

「夢を……見ていた気がするわ」

「ゆめ?」

 視線を感じるが、そのまま進行方向を見たまま続ける。

「手鏡を見ていたらね、いつの間にか鏡に追い越されてしまって、いつのまにか現実と鏡の中が入れ替わっちゃう夢」

「手鏡、か……」

 ユメノが思案する。

「夢占いとかだと、確か自分を見つめ直せとかって意味があったと思うけれど……。何か思い当ることある?」

 占いの結果よりも衝撃の事実に驚く。

「ユメノの癖に占いに詳しいだなんて……まるで乙女ね」

「人がせっかく真面目に答えてあげてるのに、失礼しちゃうよまったく」

 ユメノがおどけながら怒ってみせる。かと思えばふと何か思いついたかのように

「そう言えば、その夢に僕は出てきた?」

 どうだったろう……。

 出てきたといえば出てきた様な気もするが、言葉にして口にするうちに夢は溶解していったのか、もはやどんな夢だったのか輪郭程度にしか思い出せない。

 ユメノが出てきたと磨ると、また占いの結果が変わってくるのだろうか。

「案外、今も夢の中だったりしてね。今日のヒメ、なんだかふわふわしてるよ」

「ふわふわ……?」

「なんだろう……地に足がついてないっていうかなんだか違和感あるよ」

「違和感と言えば……」

 周囲を見渡して見せる。

「人が……誰もいないわね」

 通学や通勤の時間帯にも関わらず、人間が誰もいない。私たちの学校はおおよそ標準的な学校で、通学時間がよそと違うはずもない。なのに私たちの学校の生徒だけならまだしも、他の学校の生徒すら見かけないのは妙だ。

 自転車やバスが通る気配もなければ、それどころか生活音すら聞こえてこない。鳥の鳴き声と私たちの靴の音だけが不気味に響いている。

 まるでゴーストタウンだ。

「人がいないと……不安?」

 ユメノがこちらを覗きこんでくる。何を考えているのか、何も考えていないのか分からない目で。

「ううん、歩きやすくていいわ」

 結局、学校までに人を見かけることはなかった。

 

 

 

 

「じゃーん」

 声がする方を振り返ると、学校指定の水着を身に付けたユメノが立っていた。

 無駄な肉付きのないすらりとした身体。水泳キャップとゴーグルも装着されている。

 ちなみに私は裸足になっただけで制服は着たままだ。まさかプールに入ることになるとは思わなかったのである。

「なんかこれ、すごい贅沢じゃない!?」

 言うが早いか、そのまま走って飛び込んでゆくユメノ。

 真夏の日差しはけっこう熱い。首元にタオルを巻きながら水着を持って来ていない自分を恨めしく思った。

 そもそも今日の私の予定にプールに来るなんて項目はなかったのだ。 

 結局、学校にも人は一人もいなかった。いつも校門前で陣取っている風紀委員も、それらをかいくぐろうと策を巡らす遅刻者たちも。

 チャイムが鳴っても数学の教師は教室に来なかったし、そもそも授業を受ける生徒は私とユメノの二人だけだった。

 二人きりの学校というのは想っていた以上に広く、開放感があった。

 まず教室に人がいないのが素晴らしい。ユメノとも人目を気にすることなく話すことができる。彼女とは幼いころからの仲なので共通の話題には事欠かない。

 しかし、先生が来るんじゃないかと信じて二人で待っていたものの、待っている間にチャイムが五回ほど鳴り、痺れを切らしたユメノが飛び出して行って。

 はしゃいで走りまわっているうちに、汗をかいたからプールに入ろうと、ユメノが提案して、今に至るという訳だ。

 反対側まで泳ぎ切ったユメノがこちらに大きく手を振っている。

 片足で水を蹴りながら手を振り返す。

 二人で使うには大きすぎるプールは水がいっぱいに張られていて、本当に夢みたいに気持ちが良くて、見ているだけで楽しい気分になってくる。

 塩素の匂いさえ気にしなければ、だけれど。

 制服を濡らさない様に手足の先だけで水を撫でていると、クロールでこちらにやってきた。

「もしかして……誘ってる?」

「沈めるわよ」

「きゃー、怖い」

 女の子みたいな仕草をしてまた水の中に潜って行ってしまった。

 ほんとうにすずしそうで羨ましい。

 プールに入ると知っていたらちゃんと水着を用意していたのに。

 水着と言えば。

「貴女の水着姿って初めて見たかも」

「ヒメが寝てるうちに授業が終わってるからじゃないかな」

 浮かび上がってきたユメノ。

 そうだったろうか。確かに眠っている間に授業が終わっていることは少なくないが、体育は筆記テストで点数を取るだけじゃどうにもならないので、疲れない程度には出席しているのだ

が……。

 そもそも、ユメノが教室で大人しくしているのもあまり見ない気がする。

 私も私で寝てばかりなのであまり自分の記憶を信用できないが、ひょっとしたら本当にサボっているのは私ではなく、ユメノなんじゃないだろうか。

「ヒメ、どうかした?」

 いつの間に上がったのか、プールサイドでユメノがゴーグルを指先でくるくる回している。

「やっぱり人を気にせず泳げるっていうのはすごい気持ちいいね! 水泳部が羨ましいや」

「私は貴女が羨ましいわ。水着持ってくれば良かった」

「あはは、プールはボク一人で貸し切りだ」

「……本当に、今日って創立記念日とかじゃないわよね?」

 プールの水も張ってあるし、チャイムや放送も通常通りだ。ただ、人がいない。それだけなのに、どうしてこうも雰囲気が変わってしまうのだろう。

「違うと思うよ。カレンダーみたでしょ。普通の平日」

「臨時休校とか?」

「そんな連絡網も回ってきてないし、それにもし行き違いだったとしても一人くらい先生がいたっておかしくないよ。職員室どころか校長室にも人はいなかった」

「そうよね……」

 一応一通り人の居そうなところは確認して歩いたはずだ。人は見つからず

「まぁさ、せっかくうるさく言ってくる先生も煩わしいクラスメイトもいないんだからさ。やりたいことやって気楽に過ごそ。ね?」

 プールサイドに横たわったままの状態でユメノが言う。ユメノとしては特に危機感なども感じていないのか、非常に能天気である。

「さてと、プールも堪能したしさ、そろそろ行こうか」

「行くって……どこ」

「運動の後はご飯、トーゼンでしょ」

 緊張感のない声だけど、一人じゃないだけマシなのかもしれない。そう思うことにした。

 

 

 

 

「またカロリーメイト? 味気ないね」

 ユメノが私の手元を見て大きな声でそう言った。

 他の人と食事をするという行為もなんだか新鮮で、私の声も自然大きくなる。

「十分よ。そもそもあまりたくさん食べる方でもないし」

 ユメノの手元にある大きなカップ麺を見ながら言う。

 一つ食べただけで一日持ちそうな大きさだった。

 それに、満腹まで食べると睡魔に襲われ勉強に手がつかない……というのは建前で、実際は食に関してはあまり執着がないだけなのだけれど。

 最低限、お腹が膨れればそれでいいのである。

 私はプールで散々はしゃいでお腹が空いたというユメノに引っ張られるように、食堂にやってきた。

 案の定、ここにも人の気配はない。生徒だけじゃなく厨房の中にも人はいないので、購買で適当に見つくろったカップ麺をユメノは開けている。

 こんなところに普段近づくようなこともないので、なんだか真新しい気分だ。

 食堂通いのユメノ曰く、食堂で食事をする人間にも種類があってその中でもお弁当を持って来てここで食べるという生徒もけっこうな割合で存在するらしい。

「もっとこうさぁ、かわいらしいお弁当作ったりとか、ないの? 女子としてちょっとどうかと思うなぁ」

 カップ麺を食べている女子に言われたくない。まだカロリーメイトの方がマシなはずだ。

「お弁当を作っていた時期もあったわ」

 一週間も続かなかったけれど。

「がんばってつくっても食べるのが自分だと思うと、面倒くさくなっちゃうのよね。朝起きるのも苦手だし」

「ふーん。勿体ないなぁ」

 起きれないものはしょうがない。

「そういえばいつもは屋上でご飯食べてるんだっけ」

「正確には屋上手前の踊り場ね。屋上は鍵がかかってて入れないの」

 隙があったら屋上にも出てみたいのだけれど、と付け足す。

「今からさ、ちょっと行ってみない? ヒメがいつもどんなところでご飯食べてるのか見てみたい」

「いいけど……本当に何もないわよ? 屋上にも出られないし」

「いいからいいから」

 任せとけとばかりに、ユメノが自信たっぷりに胸を叩いて見せた。

 

 

 

 

「ね、何にもないでしょう?」

 殺風景な踊り場。

 ユメノは、こちらと屋上を隔てる扉を注視している。

「今なら、もしかしたら開くかもしれないよ」

 言われてノブをひねってみる。

 開いた。

「ね、開いた」

 ユメノがウインクしてみせる。

「行ってみましょう」

 重い扉をゆっくり押し開ける。隙間から風が入り込んで少し涼しい。

 教室に明かりがついてはいるが、教師はおろか生徒もいない。

 私と、ユメノだけだ。

「よかったら、どうぞ」

 地べたに座ったユメノが膝を叩いてみせる。

 恥ずかしいけれど、その膝に頭を載せる。

「ねぇユメノ。私は今、幸せよ」

 何も言わず頭を撫でてくれるユメノの手。すこしくすぐったいけれど気持ちいい。

「ここに入学する前はね、来たらきっと何か変わると思ってたのよ。けど今は……とてもそうは思えないのよね」

 少し前、中学生だったころは高校に上がると楽しいに違いない。そう思っていた。

 ずっと前、子供のころは毎日が楽しかった。

 そしてついさっきまでは、学校生活の何が楽しいかも分からないし、この先に楽しいことがあるはずがない。そう思っていた。

 けれど。

 けれど、今は違う。

 ユメノが隣にいてくれる。

「私とユメノ、二人っきり。私にはあなたさえいてくれればそれでいいの。他には何もいらないわ」

「…………」

 ユメノはただ黙って頭を撫でてくれる。その手にそっと私の手を重ねる。

 ユメノは私がしたかったこと、して欲しかったことをすべて叶えてくれる。

 

 

「ほんとうに夢のようだわ」

 

 

「いっそのこと、ずっとこのままいっしょに――」

 さっきまで頭を撫でてくれていた手が、今は口をふさいで言葉をさえぎっている。

「それ以上は言っちゃダメだ、ヒメ」

 初めて見るユメノの明確な拒絶だった。初めて?

 そういえば、彼女の姿を教室で見かけたのも初めてだった。

 一緒に授業を受けるのも、だ。私がいつも眠っていたから?

 本当にそうだろうか。

 嫌な答えが、頭の中をちらちらと霞める。

 頭を振ってもその考えが頭から離れてくれない。

 ユメノの水着姿を見たのも初めてだった。一緒に授業を受けていたはずなのに。

 それを否定する材料を必死に探すが、探して出てくるものは真逆のものばかり。

 導き出される結論を、私は口にする。

 

 

「ここは……私の夢なんだ」

 

 

 ユメノを見ると、とても苦しそうに何かを耐えているような顔をしていた。

「……君にとっては夢。だけど、僕にとってはここが現実だ」

 そう言ってユメノが子供のように悲しそうに笑った。

「君と僕とでは、住む世界が違うんだよ」

 こんなに苦しそうな顔をしている彼女を初めて見た。

「ねぇヒメ、夢と現実ってのは一体どちらが上位にあると思う?」

「夢の方が、綺麗で輝いてる……と思う」

「なるほど。その通りだね」

 うんうんとわざとらしくうなずく仕草。

「確かに夢は甘美で蠱惑的だ。けどね、ヒメ。夢ってのは結局、現実の延長上にある現象にすぎないんだ。眠っているという現実があるからこそ、夢が存在するんだ」

 現実から目を逸らして、夢を見続けている。

「痛みも苦しみもない夢に浸る続けると、人の心が死んでしまう。痛いからこそ、苦しいからこそ現実を見なきゃいけないんだ」

 いたずらした子どもを諭すように、ゆっくりと言葉が紡がれる。

 ユメノの声が反響してぐわんぐわん揺れる。

 気がつけば校舎の明かりが全て消え、周囲を夜の帳が下りていた。

 体育館がひしゃげ、グラウンドには幾重にも亀裂が入る。

 その亀裂が私の足元の地面を崩し、声を上げる間もなく奈落に落ちる。

 落ちて落ちて落ち続け。

 沈んで沈んで沈みこむ。

 落ちる感覚がなくなった頃には辺りはただの真っ暗闇になっていた。

 闇。本当の闇だ。

 あまりに暗すぎて、暗闇に浮かぶ少女の姿しか見えない。

 ……ユメノ?

 いや、違う。あれは、

「……私だ」

 鏡に映したようにそっくりそのままの私の姿をした何か。

 こちらに気づいたその何かが、私を見て三日月形に笑みを作る。

「ねぇ私」

「……なにかしら」

「このまま夢と一緒に――ユメノと一緒に沈み込むのも悪くない、なんて思っていない?」

 ユメノと一緒に。

 その言葉に揺らされる。

「どうせ現実なんてつまらないし、わざわざ帰らなきゃいけないような未練もない。そうでしょう?」

 現実なんてつまらないし、この世界でユメノと一人遊びしている方がよっぽど楽しい。

 けれど。

 やりのこしたこと。

「……謝らなくちゃ」

「誰に?」

 気の弱そうな彼女に。

「そうね。正解」

 満足げにもう一人の私――ユメノがうなずいている。

「だったら、早く夢から覚めて彼女に会いに行かないと。この夢ももうじき壊れてしまう。巻き込まれてしまう前に、夢を夢のまま終わらせるんだ」

 崩れる音はかなり近づいているようだ。

「どうやって?」

「ボクを拒絶すればいい。それだけさ」

 優しく笑いかけてくれるユメノ。何も心配いらないと、私を安心させようとしているのが分かる。

 そして、だからこそ私にとっての不安材料があるのだと気づいてしまう。

「夢が終わると……どうなるの?」

「心配しないで。全て元通りだ」

 それは答えになっていない気がした。

 だからこそ余計に、答えを聞くよりも悲しくて辛い。

「貴女ともお別れなのね」

 一瞬だけユメノが言い淀むが、すぐに決意を秘めた目でこちらを見る。目を逸らすことなく、しっかりと。

「ボクはここの住人だ。ここに残る。でも安心して、ボクはヒメ自身だ。いなくなったりはしないからさ」

 そう言ってトンと胸を叩く仕草。

「夢でもいいから、ずっと一緒に――」

 耐えきれなくなりそうな私の唇に、そっと人差し指が押しつけられる。

「それがいちばん危険なんだよ、ヒメ。夢に閉じこもってばかりじゃダメなんだ」

 震える私を、そっと撫でてくれる手。 

「今日一日だけだったけれど、楽しかった。ボクも本当は、明日も明後日も……ずっと一緒にいたいけどね」

 ユメノの声も震えている。

 頭をそっと抱きしめてやる。

 冷たくて硬い、ユメノの身体。

 その中からは何かが軋む音とガラスが割れる音が聞こえている。

 目の奥が熱い。

 言いたいことはたくさんあるのに。

 頭の中がぐちゃぐちゃで言葉にすることができない。 

 だから。

 だから、一言だけ。

「ありがとう、ユメノ」

 鏡に向けて作ったものじゃなく、自然な笑顔で笑ってくれた。

 初めて経験した、友人との別れだった。

 

 

 そうして、夢はあっけなく終わった。

 

 

 

 

 誰かに抱きしめられたような気がして、目が覚めた。

 見慣れない天井。頭に馴染まない枕。消毒液の香り。

「あ、目が覚めたんですね」

 この声は……火迎さんの声。

「いつも自分の席で眠ってるのに保健室で寝てるんだって先生がびっくりしてましたよ」

「…………」

 クラスメイトだけじゃなく、先生にもそう思われていたらしい。仕方がないとは言え、今後のためにもあまり寝ない様に心がけよう。

「もう授業も終わったので、鞄も持って来ておきました」

「ありがとう」

 受け取った鞄の中を確認する。

 何かキラキラ輝くものが散乱しているので拾い集める。ガラスの破片だ。

 母に貰った古い手鏡が綺麗に割れていたのだ。

 割ったのはもちろん火迎さん……ではなく私だろう。夢との決別のために。

 結局はこの鏡を現実逃避の道具にしていたんだと思う。

 現実と向き合うために、私はこの鏡を割ったのだ。

 さて、現実と向き合おう。

「ところで火迎さん、お弁当のことなんだけれど……」

「すいません……もうおナスも全部食べちゃいました。あ、よかったら今度つくってきましょうか?」

 いや、あんなもの見たくもない。

「もっもも、貰ってばかりなのも悪いから」

 火迎さんがきょとんと眼を瞬せている。

 一方的に与えられるだけじゃなく。

 かと言って与え続けるのでもなく。

「今度、お弁当を、交換……しましょう!」

 言った。

 言いきった!

 言ってしまった!

 顔が熱い。

「私でよければ、よろこんで!」

 はにかみながら、うなずいてくれた。

 

 ユメノとはもう会えないのかもしれない。

 けれど、さびしいとは思わない。

 ユメノはもう一人の私なのだ。

 甘いケーキはたまにで良いのだ。

 鏡の残骸を、ゴミ箱に放り込んだ











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